デザイナーズ家具・インテリア カタログ Stories of Design Interior Catalog

インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第2章|定住が「部屋」をつくった

チャタル・ヒュユクとスカラ・ブレイ


約1万年前、人類の暮らしに途方もなく大きな変化が起きた。

農耕と牧畜の始まり──いわゆる「新石器革命」だ。

小麦を育て、ヤギや羊を飼う。食料が安定すると、人々はもう季節ごとに移動する必要がなくなる。ひとつの場所に留まり、腰を据えて暮らしはじめる。

この「定住」という決断が、室内空間のすべてを変えた。

移動する暮らしでは、「室内」は焚き火のまわりの仮設空間にすぎなかった。でも、もう動かないと決めたなら、壁を立てることができる。壁ができれば、その内側を「仕上げる」ことができる。床に漆喰を塗り、壁に色を付け、石でベッドや棚を造りつける──そういうことが、はじめて可能になった。

「定住が壁を生み、壁が室内を生んだ。」

この章では、新石器時代の2つの遺跡を訪ねる。トルコのチャタル・ヒュユクと、スコットランドのスカラ・ブレイ。片方は約9000年前、もう片方は約5000年前。場所もまったく違う。でもそこには、定住した人類が「部屋の中」をいかに大切にしたかが、くっきりと刻まれている。


屋根から出入りする家──チャタル・ヒュユクの驚くべき密集住居

トルコの中央部、コンヤ平原にチャタル・ヒュユクという遺跡がある。紀元前7400年ごろから紀元前6200年ごろ、いまから約9400〜8200年前にかけて営まれた、世界最古級の大規模集落だ。最盛期には数千人が暮らしていたと推定されている。

この集落の住居は、現代の私たちの感覚からすると、かなり奇妙だ。

まず、「道」がない。家と家がぴったりくっついて建てられていて、その隙間がほとんどない。では、どうやって家に入るのか? 屋根からだ。

各住居の屋根にあいた穴から梯子を使って上り下りする。つまり、屋根が「道路」の役割を果たしていた。隣の家に行くには、自分の家の屋根に上がり、隣の屋根を歩いて、向こうの穴から降りる。屋根の上が街路であり、広場であり、作業場だった。

なぜこんな構造になったのか。集落の外周に窓も扉もない壁が並ぶことから防御のためとする説もあるが、遺跡には大規模な戦いの痕跡が乏しく、決め手はない。確かなのは、道をつくらなければその分だけ住居に使える面積が増えるということだ。家を建て替えるときに前の家の壁をそのまま土台にしたことも、家どうしが隙間なく連なる理由のひとつと考えられている。

しかし、この章でもっと注目したいのは、住居の「中身」のほうだ。


白い漆喰の床と壁──「きれい」への執念

チャタル・ヒュユクの住居の内部を発掘すると、まず目を引くのが白い漆喰だ。

壁にも床にも、丁寧に漆喰が塗られている。しかも一度塗ったきりではない。年に何度も何度も塗り直した痕跡が、地層のように重なって残っている。ある住居では、漆喰の塗り直し層が数十層にもなっていたという。

なぜそこまでするのか。炉の煤で汚れた面を明るく保つという、衛生上の理由もあっただろう。でもそれだけでは、数十回も塗り直す説明がつかない。

おそらく、そこには「きれいな壁と床を保ちたい」という、衛生を超えた美意識──あるいは信仰に近い感覚──があったのだと思う。

しかも、ただ白く塗るだけでなく、壁に赤い顔料で模様を描いたり、牛の頭骨のレリーフ(浮き彫り)を取りつけたりしていた住居もある。序章で紹介した7つのレイヤーで言えば、「壁」のレイヤーがすでに「囲う」機能だけでなく「飾る」「意味を込める」機能を担い始めている。

白い漆喰の壁と床、壁に取りつけた牛の頭、屋根の穴へ掛けた梯子のある部屋
チャタル・ヒュユクの住居の復元(アナトリア文明博物館)Dosseman / CC BY-SA 4.0 — Wikimedia Commons

9000年前の人々が、壁紙もペンキもない時代に、漆喰を何十回も塗り直して白い壁を維持し続けた。そこには「室内を美しく保ちたい」という、現代の私たちとまったく同じ欲求がある。


壁の下に眠る死者──住まいと墓が同居した時代

チャタル・ヒュユクには、もうひとつ、現代人の感覚では驚くべき特徴がある。

亡くなった人が、住居の床の下に埋葬されていた。

遺体の多くは、死後まもなく膝を折り曲げた姿勢で、床下に掘った穴に納められた。かつては遺体を屋外に安置して骨だけを持ち帰ったとする説が有力だったが、近年の発掘では、こうした一次埋葬が大半を占めることがわかっている。とくにベンチ(座ったり寝たりする段差部分)の下に埋められることが多かった。つまり、人々は文字通り「死者の上で眠っていた」ことになる。

これは私たちの感覚からすると不気味に思えるかもしれない。でも当時の人々にとっては、亡くなった家族が家のなかに留まり続けることは、自然で、安心できることだったのだろう。

埋葬のあと、床にはまた新しい漆喰が塗られ、その上で日常が続く。生者の世界と死者の世界が、薄い漆喰の層一枚で隔てられている。

序章の7つのレイヤーで言えば、「床」がここでは物理的な「踏む面」であると同時に、「生と死の境界」という「象徴」のレイヤーをも兼ねている。新石器時代の床は、建材であると同時に、この世とあの世をつなぐ膜でもあった。


「間取り」のルール──偶然ではない配置

チャタル・ヒュユクで発掘された住居は、数百棟にのぼる。そして多くが、驚くほどよく似た構成をしている。

炉とかまどは、たいてい南側の壁のそばにある。入口に近いこの一角が「作業ゾーン」で、料理をしたり、道具を使ったりする場所だ。

反対側のきれいなエリアには、壁に沿って一段高いベンチ(プラットフォーム)が設けられている。ここが「居住ゾーン」で、座ったり、寝たり、客を迎えたりする場所だった。先ほど述べたように、亡くなった家族もこのベンチの下に眠っている。

つまり、ひとつの部屋のなかに「汚れてもいい作業の場所」と「きれいに保つ生活の場所」が、ゆるやかに、しかし明確に分けられていた。

数百もの住居が同じパターンを繰り返しているということは、これが個人の思いつきではなく、集落全体で共有された「ルール」だったことを意味する。図面など一枚も残っていないが、「炉はここ、ベンチはここ、入口はあそこ」という空間のルールは、口伝や慣習を通じて確実に受け継がれていた。

設計図がなくても、設計はあった。その証拠が、チャタル・ヒュユクには何百棟分も積み重なっている。


5000年前の「造り付け家具」──スカラ・ブレイの石のベッドと棚

チャタル・ヒュユクから約4000年後、スコットランドの北端に浮かぶオークニー諸島に、もうひとつの驚くべき集落がつくられた。

スカラ・ブレイ。約5000年前(紀元前3100年頃)の新石器時代の集落だ。

この遺跡が特別なのは、保存状態が奇跡的に良いこと。そしてその理由は単純だ──この集落は、木や草ではなく石でつくられていた。

オークニー諸島は木がほとんど生えない風の強い島だ。だから住居も、家具も、すべて石でつくるしかなかった。木や草は腐って消えてしまうが、石は5000年でもほとんどそのまま残る。おかげで私たちは、新石器時代の「部屋の中」を、ほぼ当時のまま見ることができる。

住居のなかに足を踏み入れると(現在は遺跡として公開されている)、まず目に入るのが石のベッドだ。入口の両側に、平たい石板で囲われた四角い区画がある。ここにおそらく草やヘザー(ヒースの仲間)を敷き詰めて寝具にしたのだろう。ベッドの片方が少し大きいことが多く、大人用と子ども用、あるいは夫婦と子どもで分けられていたのかもしれない。

部屋の奥の壁、ちょうど入口の正面には**石の棚(ドレッサー)**が据えられている。石板を何段にも重ねたこの棚は、入口からまっすぐ視線が通る場所にある。つまり「部屋に入って最初に目に入るもの」だ。この棚の上に何を並べたかは定かではないが、大切なものを「見せる場所」として意識的に配置されていたことは間違いないだろう。

石を積んだ壁に囲まれた半地下の部屋。奥に石板を重ねた棚がある
スカラ・ブレイの住居跡。正面に石の棚、手前に石で囲った寝台が残るColin Park / CC BY-SA 2.0 — Wikimedia Commons

チャタル・ヒュユクの漆喰のベンチも部屋に組み込まれた台だったが、ベッドと棚という「家具」の形がこれほど完全に残る例は、世界でもほかにほとんどない。

「造り付け家具」とは、部屋に最初から組み込まれた、動かすことを前提としない家具のこと。現代のシステムキッチンやウォークインクローゼットのようなものだ。スカラ・ブレイでは、ベッドも棚も部屋の構造の一部として最初から設計されている。「家を建ててから家具を入れた」のではなく、「家具込みで家を建てた」。

旧石器時代の「持ち運べるインテリア」から、「動かさないインテリア」へ。定住という決断が、この根本的な転換を可能にした。


炉は「部屋の中心」であり続けた

スカラ・ブレイの住居でも、チャタル・ヒュユクと同じく、部屋の中央には炉がある。

石で囲われた四角い炉が、ベッドと棚のあいだの床面に据えられている。壁ができて屋根ができても、火が空間の中心であることは変わらなかった。

第1章で見たように、旧石器時代の野営地では焚き火がすべての中心だった。その原則は、壁に囲まれた「部屋」のなかでも、まったく揺らいでいない。暖をとり、明かりを得て、料理をし、人が集まる場所。数千年のあいだ、火はずっとその役割を担い続けた。

スカラ・ブレイの住居に立つと(あるいはその写真を見ると)、5000年前の家族の暮らしが不思議なほどリアルに想像できる。中央の炉に火が入り、左右のベッドに草の寝具が敷かれ、正面の棚に大切なものが並び、煙混じりの光が石の壁を柔らかく照らす──。

壁紙もカーテンもフローリングもなかったけれど、この部屋には「快適に暮らすための設計」がすみずみまで行き届いていた。


定住がもたらした「室内の私有化」

定住は、室内空間にもうひとつ、根本的な変化をもたらした。

「ここは自分たちの場所だ」という意識──つまり空間の私有化だ。

旧石器時代の野営地には、明確な「持ち主」がいなかった。焚き火のまわりの空間は集団全体のものであり、翌日にはもうそこにいないのだから、所有する意味がない。

しかし定住すると話が変わる。壁で囲った「中」は自分たちの空間であり、壁の「外」は他人の空間だ。チャタル・ヒュユクでは家と家がぴたりと隣り合っているからこそ、壁一枚が「うちとよそ」を分けている。スカラ・ブレイでも、各住居は独立した壁で仕切られている。

さらに興味深いのは、住居のなかにも「自分の場所」が生まれ始めたことだ。スカラ・ブレイの2つのベッド。チャタル・ヒュユクの、作業ゾーンと居住ゾーンの区別。「部屋のこちら半分は私のもの、あちら半分はあなたのもの」──そんな感覚が、5000年前にすでに芽生えていた可能性がある。

この「空間の私有化」は、歴史が進むにつれてどんどん強まっていく。中世ヨーロッパでは暖炉と煙突の普及が「個室」を生み(第9章)、ルネサンスでは知識人が「書斎」という自分だけの部屋を持ち始め(第12章)、20世紀にはプライバシーが設計の基本条件になる。スカラ・ブレイのあの小さな石のベッドは、その長い物語の出発点のひとつだ。


壁のある部屋が「できること」を増やした

定住は、序章で挙げた7つのレイヤーのすべてを変えた。床は漆喰で仕上げられ、その下は死者を葬る場になった。壁は内側を塗り、飾る面になった。屋根が室内の温度を安定させ、家具は持ち運ぶものから造り付けるものに変わった。炉は相変わらず空間の中心にあったが、壁と屋根に囲まれて熱を逃がしにくくなった。


「留まる」ことから始まった

移動していた時代にも、焚き火のまわりに「仮の室内」はあった。でも、壁を立て、床を仕上げ、家具を据え付けるという行為は、「ここにずっといる」と決めた人々にしかできなかった。

チャタル・ヒュユクの白い漆喰を何十回も塗り直した人々も、スカラ・ブレイで入口の正面に棚を据えた人々も、「ここが自分たちの場所だ」という思いで室内を整えていた。その思いは、9000年後、5000年後の私たちが自分の部屋を模様替えするときの気持ちと、きっとそう遠くないはずだ。