コラム④|バウハウスの教師たち
カンディンスキーは何を教えたのか
バウハウスは建築やデザインの学校として知られている。だが教壇に立っていたのは、20世紀を代表する画家、彫刻家、写真家、舞台芸術家たちだった。
カンディンスキーは抽象絵画の創始者。クレーは「近代絵画の天使」と呼ばれた画家。モホイ=ナジは写真と光の実験者。シュレンマーはロボットのような衣装のバレエを創った舞台人。そしてイッテンは、授業の前に瞑想と呼吸法を行わせた神秘主義者──。
これだけ個性の強い人間たちが、ひとつの学校に集まった。奇跡のような、そして爆発物のような教師陣だった。
このコラムでは、第2幕で駆け足になった主要教師6人の横顔を紹介する。
ヨハネス・イッテン(在任 1919─1923年)
瞑想する予備課程の創設者
バウハウスに入学した学生が最初に出会う教師が、イッテンだった。
丸刈りの頭に、修道服のようなローブをまとう。授業が始まると、まず全員で呼吸法と瞑想を行う。マズダズナンというゾロアスター教系の新興宗教を信奉しており、菜食主義とにんにくの多食を学生に勧めた。
風変わりな人物だった。しかし、彼がつくった教育プログラムは世界中のデザイン学校の原型になった。
イッテンが担当した「予備課程(フォアクルス)」は半年間。学生は3つのことを学んだ。
第一に、素材。木、金属、ガラス、布、石、紙──あらゆる素材を手で触り、目で観察し、質感と表情を体で覚える。
第二に、色彩。イッテンは色彩の効果を7つの対比──色相対比、明暗対比、寒暖対比、補色対比、同時対比、彩度対比、面積対比──に体系化した。のちに著書『色彩の芸術』として出版されるこの理論は、現在もデザイン教育の基礎テキストである。
第三に、形態。円、三角、正方形。この3つの幾何学形態と、そこから派生する立体──球、円錐、立方体──が、すべての造形の出発点だと教えた。
イッテンの言葉がある。「色彩を愛する者だけが、色彩の美しさと内なる存在を認められる。色彩はすべての者に利用されるが、その深い神秘を明かすのは、献身する者にだけだ」。
しかし、個人の芸術的表現と神秘主義を重視するイッテンと、工業生産との連携を目指すグロピウスとの対立は避けられなかった。1923年、イッテンはバウハウスを去る。シュレンマーは彼を「教育的パワーユーバー(権力者)」と呼んだ。
ワシリー・カンディンスキー(在任 1922─1933年)
「三角形は黄色」
バウハウスにもっとも長く在籍した教師だ。1922年の着任から1933年の閉校まで、11年間。壁画工房のフォルムマイスター(形態の親方)として、予備課程の形態論、色彩セミナー、分析的デッサンを担当した。
カンディンスキーの授業でもっとも有名なのは、1923年に実施したアンケートだ。
三角形、正方形、円の3つの図形に、赤、黄、青の3色を割り当てなさい。
カンディンスキーの仮説はこうだった。
三角形=黄色。 鋭角的で、攻撃的で、上昇する形。それに対応する色は、もっとも明るく鋭い黄色。
正方形=赤。 安定して、固く、地に足のついた形。それに対応する色は、もっとも物質的な赤。
円=青。 重力から自由で、無限に広がる形。カンディンスキーはこれを「第四次元」と呼んだ。それに対応する色は、もっとも深く精神的な青。
回答者の多くがカンディンスキーの仮説に同意した(クレーやシュレンマーは異議を唱えたが)。この「三角形=黄色、正方形=赤、円=青」の等式は、バウハウスのトレードマークになった。ペーター・ケーラーの有名な乳児用ゆりかごや、ヘルベルト・バイヤーの壁画にもこの原則が使われている。
1926年に出版された『点と線から面へ』は、バウハウス叢書第9巻として刊行された。点は「絵画の原要素」であり「沈黙と言語のもっとも究極的で特異な結合」。線は「点の自閉的な静寂が破壊されることによって生まれる」。水平線は「冷たい休息」、垂直線は「温かい休息」。──抽象的な形態に感情と温度を見出すカンディンスキーの理論は、視覚言語の文法書と呼べるものだった。
円について、カンディンスキーはこう語っている。「今日、私は馬を愛したように円を愛している──おそらくそれ以上に。円にはより多くの可能性が秘められているから。円はもっとも偉大な対立のすべてを内包する総合だ」。
パウル・クレー(在任 1921─1931年)
3000ページの理論ノート
クレーは10年間にわたり、製本、ステンドグラス、壁画の各工房でフォルムマイスターを務めながら、構成論の講義を行った。
1925年にバウハウス叢書第2巻として刊行された『教育スケッチブック』は、近代美術の最も重要なテキストのひとつとして知られている。
ある書評はこう評した。「この小さな手引書は、科学と想像力が融合する神秘的な世界へ読者を導く」。
クレーの理論は4つのパートで構成される。
第1部は「線」。点が動くと線になる。静的な点が動的な線に変容する瞬間を分析する。
第2部は「次元とバランス」。二次元と三次元のあいだの錯覚を探る。
第3部は「空間への突出と重力の引力のあいだの緊張」。建築的なスケール感覚の養成。
第4部は「創造的運動学」。重力に逆らう力、色彩と運動の関係。
クレーの教育方法の特徴は、自然の成長パターンを出発点にすることだった。「芸術は目に見えるものを再現するのではなく、目に見えるようにするのだ」──この有名な一節は、クレーの教育哲学の核心でもある。植物の成長、水の流れ、雲の形──自然界の動きのなかに幾何学的な法則を見出し、それを造形に翻訳する。
クレーが遺した手書きの理論ノートは3000ページを超える。図表を多用し、幾何学的、物理学的、美学的、精神的な概念を重ね合わせた、壮大な造形理論の記録である。
ラースロー・モホイ=ナジ(在任 1923─1928年)
光で描く
1923年、イッテンの後任として予備課程を引き継ぎ(ヨーゼフ・アルバースと共同担当)、同時に金属工房のフォルムマイスターを務めた。
イッテンが神秘主義と個人の表現を重視したのに対し、モホイ=ナジは徹底的にテクノロジー志向だった。
もっとも有名な業績は「フォトグラム」──カメラを使わない写真──だ。感光紙の上に直接ものを置いて光を当て、影と光の痕跡を記録する。モホイ=ナジはこの技法を450点近く制作し、「光によるフォルムの記録であるフォトグラムこそ、写真という媒体の本質への鍵だ」と書いた。
「新しい視覚」と題された彼の教育哲学は、カメラが「外界を見る、人間の目にはない新しい方法を創造できる」ことを強調した。望遠鏡、顕微鏡、X線──科学の道具を芸術に導入することを、モホイ=ナジは最初に提唱した。
金属工房では、学生に素材のバランス実験やテクスチャーの研究をさせた。素材、構造、機能、生産の関係を探る実践的で実験的なアプローチは、イッテンの表現主義とは対照的だった。
グロピウスとともに14巻のバウハウス叢書を共同編集し、そのタイポグラフィもデザインした。
バウハウス離脱後の1937年、モホイ=ナジはシカゴに「ニュー・バウハウス」(のちのデザイン研究所、現イリノイ工科大学デザイン学部)を設立した。美術史家エリザベス・シーゲルはこの学校を「彼の包括的な芸術作品」と呼んでいる。
ヨーゼフ・アルバース(在任 1923─1933年)
「目を開くこと」
バウハウスの学生から教師に昇格した最初の人物だ。1923年からモホイ=ナジとともに予備課程を担当した。
アルバースの授業でもっとも特徴的なのは「紙の折りたたみ」だ。接着剤を一切使わず、紙の折りと差し込みだけで建築的な構造物をつくらせる。引っ張りと圧縮のもとでの紙の性能をテストし、素材の「固有の性質」を体で理解させる。
方法は独特だった。課題を出したあと、アルバースは教室を離れる。数時間後に戻ってきて批評する。もっとも高い評価を受けるのは、「紙の固有の性質をもっともよく活かした」作品だ。
「最良の教育とは、自分自身の経験です。実験は勉強に勝る。『遊ぶ』ことから始めれば勇気が育ち、発明的な構築の方法に自然に導かれ、発見する能力──教育上同じくらい重要な能力──が培われます」。
学生のひとりはこう回想している。「アルバースの教室では、何も既知のものとはされなかった。すべてを自分で探し、発見し、分析し、表現しなければならなかった。そうすることで初めて、それが本当に自分のものになった」。
バウハウス閉校後、アルバースはアメリカに渡り、ブラック・マウンテン・カレッジ(1933─49年)とイェール大学(1950─60年)で教鞭をとった。ブラック・マウンテンの学生にはロバート・ラウシェンバーグ、サイ・トゥオンブリー、ルース・アサワがいる。
1963年に出版された『色彩の相互作用』は、30年間の教育経験の集大成だ。色は「受動的で、欺瞞的で、不安定」だが、文脈のなかでは予測可能になる。理論ではなく直接的な知覚による学習──これがアルバースの方法論だった。献辞にはこうある。「この本は私の学生たちへの感謝です」。そして「色彩について、私の学生たちは色彩についての書物よりも多くのことを私に教えてくれた」と記している。
教育の目標を、アルバースはこう要約した。「目を開くこと」。
オスカー・シュレンマー(在任 1921─1929年)
ロボットが踊る
シュレンマーは1923年から舞台工房を率い、バウハウスの演劇活動の中心人物となった。
代表作は「トリアディック・バレエ(三つ組のバレエ)」。1922年9月30日にシュトゥットガルトで初演され、パウル・ヒンデミットが音楽を作曲した(ただし録音は約8分間しか現存しない)。
構成は「3」の原理に貫かれている。
3幕、3人のダンサー(男性2人、女性1人)、12の舞踏、18の衣装。
第1幕はレモンイエローの舞台。陽気で喜劇的。第2幕はバラ色の舞台。儀式的で荘厳。第3幕は黒い舞台。神秘的な幻想が、無限に後退するように見える闇のなかで展開される。
衣装は、詰め物をした布、張り子、箔、鋼板、合板、ワイヤー、ゴムでつくられた。人間の身体を「動く彫刻」に変える装置だ。「ゴールドスフィア」は腕のない卵形の胴体。「スフィアハンズ」は腕の先端に色つきのボールがつく。「ディスクダンサーズ」は刃物のような円盤を身にまとう。
シュレンマーのプロセスは独特だった。「まず衣装、つまりフィギュリンが来た。次にそれにもっともふさわしい音楽を探した。音楽とフィギュリンが舞踏を導いた」。
インスピレーション源として、シュレンマーは「精密機械、ガラスと金属の科学装置、外科手術が発展させた義肢、深海ダイバーや現代の兵士のファンタスティックな衣装」を挙げている。
この美学は後世に大きな影響を与えた。フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』(1927年)のロボット、デヴィッド・ボウイのジギー・スターダスト時代の衣装(山本寛斎デザイン)に、シュレンマーのDNAが流れている。
そのほかの重要な教師たち
ヴァルター・グロピウス(校長 1919─1928年)。 バウハウス宣言を起草し、ライオネル・ファイニンガーの大聖堂木版画を表紙に据えた。デッサウの校舎(1925─26年)を設計し、ガラスのカーテンウォールと非対称のピンホイール・プランで学校の理念を建築に体現した。バウハウス後はハーバード大学デザイン大学院で教鞭をとった。
マルセル・ブロイヤー(学生 1920─24年、教師 1925─28年)。 家具工房主任。ワシリーチェアとカンチレバーチェアを設計し、椅子はいずれ「空気の柱に取って代わられる」と予言した。バウハウス後はグロピウスとともにハーバードへ。教え子にI.M.ペイ、フィリップ・ジョンソン、ポール・ルドルフがいる。
ヘルベルト・バイヤー(学生 1921─24年、教師 1925─28年)。 タイポグラフィ・広告工房の責任者。1925年に「ユニヴァーサル書体」をデザインした。幾何学的なアルファベットで、大文字を廃止し、セリフを排除した。ドイツの「古風で複雑なゴシック・アルファベット」に対する挑戦状だった。
14年間に集まった天才たち
改めて教師陣の顔ぶれを眺めると、これほどの才能がひとつの小さな学校に集まったこと自体が奇跡に見える。
しかし、それは奇跡ではなく必然でもあった。第一次世界大戦が終わり、帝政が崩壊し、新しい共和国が生まれたドイツ。すべてを一からつくり直したいというエネルギーが、ヴァイマールという小さな街に異才たちを引き寄せた。
カンディンスキーが色と形の法則を探り、クレーが自然の成長を幾何学に翻訳し、モホイ=ナジが光でフォルムを記録し、アルバースが紙の折り目から建築を見出し、シュレンマーが人体を彫刻に変え、イッテンが瞑想のなかに創造の源泉を求めた。
教師たちの個性はばらばらだったが、ひとつの信念を共有していた。芸術は、実際に人が住み、働き、暮らす空間のためにある。
絵画のためだけの絵画、彫刻のためだけの彫刻ではなく、建築のなかに統合される芸術。それがバウハウスの理念であり、この理念が、教師たちの異なる才能を──ときに激しく衝突させながら──ひとつの場所に束ねた。
14年間の学校が100年間のデザインを決めた、その原動力は、この教師たちだった。