デザイナーズ家具・インテリア カタログ Stories of Design Interior Catalog

インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第18章|素材だけで空間をつくる

ミースとバルセロナ・パビリオン

バルセロナ・パビリオンの特徴 1929年のバルセロナ万国博覧会のドイツ館として、ミース・ファン・デル・ローエが設計した。8本のクロムメッキの十字柱が薄い屋根を支え、壁は構造から切り離されて自由に置かれている。壁にはトラバーチン、オニキス、2種の緑大理石と着色ガラスが使われ、床には浅い水盤が設けられた。展示品はなく、建物そのものが展示だった。博覧会のあと解体され、1986年に同じ場所で復元されている。館内に置かれた椅子がバルセロナチェアである。


1929年5月27日、バルセロナ。

スペイン国王アルフォンソ13世と王妃ビクトリア・エウヘニアが、万国博覧会のドイツ館を訪れた。

国王夫妻が足を踏み入れた建物には、絵画もなければ彫刻の群像もなかった。陳列品も、展示ケースもなかった。

あったのは──壁だけだ。

ローマ産のトラバーチン、モロッコのアトラス山脈から運ばれたオニキス、ギリシャ・ティノス島の緑大理石、アルプスの緑大理石。4種類の石が、クロムメッキの十字柱に支えられた屋根の下に配置されていた。灰色、緑色、白色の着色ガラスが光を透過させ、床面の浅い水盤が石と空と建物を映していた。

装飾は何もない。展示品もない。しかしこの空間は、訪れた者の目を奪った。

設計者の名はミース・ファン・デル・ローエ。

この建物──バルセロナ・パビリオン──は、万博終了後の1930年初頭に解体された。存在したのは8か月あまり。しかし、この短命な建物は20世紀の室内空間に長く影響を与え続けた。

水盤の奥に、薄い屋根を載せた石とガラスの低い建物が建つ
復元されたバルセロナ・パビリオン(2010年撮影)Ashley Pomeroy at English Wikipedia / CC BY 3.0 — Wikimedia Commons

4種類の石、8本の柱──素材が空間を語る

天井の高さは約3.1メートル。この高さは、ミースが手に入れたオニキスの石塊から切り出せる板の寸法に合わせて決められたと伝えられる。素材が建築の寸法を決めたわけだ。床は約1.09メートルの正方形をモジュールとしたグリッドで構成され、全体はトラバーチンの基壇の上に載っている。

使われた4種類の石材は、それぞれ異なる表情を持っている。

ローマ産トラバーチンは基壇、床、外壁に使われた。温かみのあるクリーム色で、小さな穴が表面に散在する。古代ローマのコロッセオにも使われた石だ。

**ギリシャ・ティノス島産の緑大理石(ヴェルデ・アンティコ)**は、壁の仕切りに配された。深い緑に白い筋が走る石で、自然の大理石特有の不規則なパターンを持つ。

アルプス産の緑大理石も壁面に使用された。ティノス島の石とは異なる色調で、空間に変化を与えている。

そしてモロッコ・アトラス山脈産のオニキス・ドレ。半透明の黄金色に輝くこの石は、建物のちょうど中央に自立する壁として配置された。太陽の光が低い角度で差し込むと、オニキスは内側から光を発するように見える。

金茶色の縞模様が左右対称に現れた石の壁の前に、低い腰掛けが3脚並ぶ
パビリオン中央のオニキスの自立壁Cl3phact0 / CC BY-SA 4.0 — Wikimedia Commons

構造を支えるのは8本のクロムメッキの十字柱だ。十字断面の鉄柱は、鏡面仕上げのクロムメッキによって周囲の石やガラスを映し込む。柱が「存在しながら消える」──構造体でありながら、視覚的には空間に溶け込んでいく。

これが「浮遊する屋根」の効果を生んだ。薄いコンクリートの屋根は、8本の柱に載っているだけに見える。壁は屋根を支えていない。壁は屋根から独立して、自由に配置されている。

──前の章で見たル・コルビュジエの「自由な平面」と原理は同じだ。しかしミースは、その原理をまったく異なる方向に展開した。ル・コルビュジエが「機能」と「動線」で自由な平面を設計したのに対し、ミースは**「素材」と「光」**で空間を構成した。


壁が「流れる」──直線のない散歩道

バルセロナ・パビリオンに足を踏み入れると、すぐに奇妙なことに気づく。

まっすぐ歩ける場所がない。

一般的な建物なら、入り口から奥に向かって廊下が延び、その先に部屋がある。しかしこのパビリオンには廊下がない。壁が互いにずれるように配置されているため、来訪者は壁のあいだを縫うように進むことになる。右に折れ、左に曲がり、気がつくと視界が開け、また閉じる。

ミースはこれを意図的に設計した。壁を平行に向かい合わせるのではなく、少しずつずらすことで、空間が「流れる」ように感じられる。壁と壁のあいだに生まれる隙間が、ひとつの空間を複数のゾーンに分けると同時に、視線の抜け道をつくっている。

部屋と部屋が「区切られている」のではなく、空間が「連続している」。──これがミースの追求した「空間の流動性」だ。

ル・コルビュジエのサヴォア邸が「スロープに沿った映画的体験」だったとすれば、バルセロナ・パビリオンは「壁のあいだをさまよう体験」だった。どちらも「歩くことで空間が変化する」という発想だが、その質感はまるで違う。サヴォア邸が上昇していくダイナミズムだとすれば、パビリオンは水平方向に広がる静謐さだ。


消えた女性の名前──リリー・ライヒの貢献

バルセロナ・パビリオンの話をするとき、もうひとりの設計者の名前を忘れてはならない。

リリー・ライヒ(1885-1947)。

バルセロナ万博では、ドイツの産業展示の芸術面の責任者として、ミースと並んで任命された。独自のスタジオを主宰する、当時すでに実績のあるデザイナーで、のちにバウハウスでも教えている。

ミースとライヒは1925年から1938年まで13年間にわたり、公私にわたるパートナーとして協働した。バルセロナ・パビリオンだけではない。1927年のシュトゥットガルト「住居」展、ベルリンのガラスの部屋、ブルノのトゥーゲントハット邸、1931年のベルリン展示住宅──この時代のミースの代表作のほとんどに、ライヒは共同設計者として関わっている。

ミースが家具デザインで大きな成果を上げたのが、ライヒと協働していた時期にほぼ限られることも、しばしば指摘されている。

しかし歴史は長いあいだ、彼女の名前を消してきた。

1996年になってようやく、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の展覧会「リリー・ライヒ:デザイナーと建築家」が、彼女への正当な注目をもたらした。2018年、ミース・ファン・デル・ローエ財団はリリー・ライヒ・グラントを創設し、彼女の名を冠した助成制度を始めた。

バルセロナ・パビリオンの素材選択、空間構成、家具デザインのどこまでがミースで、どこからがライヒなのか。その境界線を正確に引くことはもはやできない。しかし「ミースひとりの作品」ではなかったという見方は、今日の研究者のあいだで広く共有されている。


国王が座らなかった椅子──バルセロナ・チェア

パビリオンのなかに、2脚の椅子が置かれていた。

開会式で国王夫妻が腰かけるために設計された椅子──バルセロナ・チェアだ。

ただし、実際に国王夫妻が座ったかどうかには異説がある。「座ることはなかった」とする説が有力だ。いずれにせよ、この椅子は20世紀で最も有名な椅子のひとつになった。

デザインの着想源は古い。ローマ帝国の執政官椅子(セラ・クルリス)──X字に交差する脚を持つ折りたたみ式の椅子──と、プロイセンの建築家カール・フリードリヒ・シンケルが1825年に設計した鋳鉄の庭園椅子だ。古典を参照しながら、完全に現代的な形に再構成している。

幅も奥行きも70センチを超え、実物に座ると驚くほどゆったりしている。

1929年のオリジナルは、ボルト接合のクロムメッキ鋼フレームに象牙色の豚革を張ったものだった。しかし1950年の再設計で、フレームはシームレス溶接のステンレス鋼に変更され、表面仕上げはより洗練されたものになった。革も牛革に変わった。

現行のバルセロナ・チェアは、40枚の革パネルを手作業で裁断・縫製し、17本の革ストラップがクッションを支えている。一見シンプルな椅子だが、製造には高度な手仕事が必要とされる。「工業的に見える手仕事」──モダニズムの逆説がここにもある。

製造権は1953年にノール社に付与された。1990年代半ばからは、コピー品対策として右後脚にミースのサインが刻印されている。

バルセロナ・チェアは「座るための道具」であると同時に、空間の中で「彫刻」として機能するように設計されていた。パビリオンのオニキスの壁を背にして置かれた2脚は、トラバーチンの床に影を落とし、クロムが周囲の石材を映し込む。椅子が空間の一部になっていた。

→ 椅子の構造と現行品の仕様は、事典のバルセロナチェアのページで扱っている。


オニキスの前の裸像──唯一の「有機的なもの」

パビリオンの南東の角に、小さな反射池がある。

その池のほとりに立っているのが、ドイツの彫刻家**ゲオルク・コルベ(1877-1947)**による女性裸像「朝(Der Morgen / Alba)」だ。

両腕を上げ、視線をそらした中腰の女性像。厳格な幾何学で構成された空間のなかで、唯一の有機的・具象的な存在だ。

ミースは大きな水盤をあえて空にした。彫刻が置かれたのは小さな反射池だけだ。コルベの像は複数の方向から眺めることができるように配置されており、池の水面、ガラスの壁、クロムの柱がそれぞれ異なる角度から像を映し出す。

この彫刻には象徴的な意味もあった。朝の光と覚醒──第一次世界大戦後の、新しいドイツの再生への願い。抽象的で幾何学的な建築のなかに「人間」を持ち込むことで、空間に温度が生まれていた。


もうひとつの「自由な平面」──トゥーゲントハット邸

バルセロナ・パビリオンは万博のための仮設建築だった。では、ミースの思想が「住む場所」に実装されたとき、何が起きたのか。

その答えは、チェコ・ブルノにある。

トゥーゲントハット邸(1928-1930年)。鉄骨の柱で支えた住宅で、ミースが「自由な平面」を暮らしの場で本格的に実現した作品だ。2001年にユネスコ世界遺産に登録されている。

芝生の斜面の上に建つ、横に長いガラス張りの白い住宅
トゥーゲントハット邸の庭側の外観(ブルノ)Karelj / CC BY-SA 3.0 — Wikimedia Commons

メインフロアのリビングエリアは約250平方メートル。この広大な空間は壁で仕切られていない。代わりに、3つのゾーンを区切るのは2枚の自立壁だ。

ひとつはバルセロナ・パビリオンと同じく、アトラス山脈産のオニキス。褐色に金色の筋が走る半透明の石が、作業・読書スペースとリビングを分離している。夕陽が低くなると、オニキスの壁は光を透過して内側から輝くように見えた。

もうひとつはマカッサル黒檀の半円形の壁で、ダイニングスペースを柔らかく包み込んでいた。この黒檀のパネルには数奇な運命がある。第二次世界大戦中に邸宅から持ち去られて行方不明になっていたが、2010年代に入って、ブルノ市内の大学の食堂の壁材として使われているのが見つかった。世界遺産のオリジナル部材が、何十年も食堂の壁に隠れていた。

この邸宅で最も驚くべき仕掛けは窓だ。リビングに面した大きなガラス窓は、電動で床に完全に沈み込む。当時の記録では「自動車のように」と表現されている。窓が消えると、250平方メートルの室内がそのまま庭と一体になる。内と外の境界が文字通り消滅する。

家具はリリー・ライヒとの共同設計だ。ダイニングにはブルノチェアが並び、オニキスの壁の前にはトゥーゲントハット・チェアやバルセロナ・チェアが置かれた。

素材の組み合わせは慎重に計算されている。オニキスの褐色と金、黒檀の漆黒、銀灰色の布地、エメラルドグリーンの革。色と質感のハーモニーが、装飾なしで空間に豊かさをもたらしている。


「Less is More」──あの言葉の本当の出典

ミース・ファン・デル・ローエの代名詞ともいえるフレーズがある。

「Less is More(少ないことは、豊かなことだ)。」

この言葉はあまりにも有名だが、じつはミースが考えたものではない。

原典は**1855年、イギリスの詩人ロバート・ブラウニングの詩「アンドレア・デル・サルト」**だ。ルネサンス期のフィレンツェの画家を主人公にしたこの詩のなかに、「less is more」という一節がある。

ミースがこの言葉を初めて聞いたのは、ペーター・ベーレンスの建築事務所でのことだったという。ミースは1908年から1911年ごろまで、ベーレンスのもとで働いていた。

ミースは後年のインタビューで、ベーレンスの事務所でこの言葉を耳にしたこと、ただしそれは自分が込めた意味とは違っていたことを回想している。

ベーレンスにとってそれは「もっとシンプルに描け」程度の実務的な助言だったかもしれない。しかしミースはこの言葉を、デザイン哲学の核心にまで高めた。削ぎ落とすことで豊かになる。要素を減らすことで、残った要素の存在感が際立つ。

もうひとつのミースの名言、**「God is in the details(神は細部に宿る)」**の出典はさらに不確かだ。この言葉がミースと結びつけられたのは、1969年のニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事においてだった。しかし同様の言い回しは、それ以前から美術史家アビ・ヴァールブルクやフローベールなどに帰されており、出典ははっきりしない。

出典がどこであれ、この2つのフレーズはミースの建築を端的に要約している。少なくすること。そして残った少ないものの細部に、すべてを込めること。

バルセロナ・パビリオンは、この思想をもっとも純粋なかたちで示した建物だった。


消えた建物、蘇った建物

バルセロナ万博が終わると、パビリオンは解体された。資材はドイツに送り返された。

1年に満たない命。普通なら、忘れ去られてもおかしくない。

しかしこの建物は忘れられなかった。モノクロ写真と図面だけが残り、それが建築の教科書に繰り返し掲載され、「見たことはないが知っている建物」になった。建築を学ぶ者で、バルセロナ・パビリオンの写真を見たことがない者はいない。しかし20世紀の大半を通じて、その実物を見た者はいなかった。

1986年、パビリオンは蘇った。

バルセロナ市の都市計画局長オリオル・ボイガスの発案により、建築家イグナシ・デ・ソラ=モラレス、クリスティアン・シリシ、フェルナンド・ラモスの3人が復元を手がけた。1983年に着工し、1986年にオリジナルとまったく同じ場所にオープンした。

復元チームは歴史的図面と、再発見された基礎をもとに作業を進めた。石材はオリジナルと同じ産地から調達された。ローマ産トラバーチン、アルプス産緑大理石、ギリシャ産古代緑大理石、アトラス山脈産オニキス──57年前と同じ石が、同じ場所に据えられた。

しかし批評家のあいだには、復元そのものの是非をめぐって議論があった。

──消えた建物を復元することは「正しい」のか。写真と記憶のなかにだけ存在する建築には、実物にはない「不在のオーラ」があるのではないか。復元は、そのオーラを壊してしまうのではないか。

この問いに正解はない。しかし現在、バルセロナのモンジュイックの丘に建つ復元パビリオンは、年間数十万人の来訪者を迎えている。写真では伝わらないオニキスの透光、トラバーチンの手触り、水盤に映る空──五感で体験して初めてわかることが、やはりある。


ル・コルビュジエとミース──ふたつの出発点

ミースのパビリオンは、ル・コルビュジエの五原則とは異なる道筋で、室内空間の可能性を切り拓いた。

ル・コルビュジエは**「機能」**から出発した。人間がどう動き、光がどう入り、空気がどう流れるか。それを最適化するために壁を自由にした。

ミースは**「素材」**から出発した。石はどんな表情を持ち、鉄はどう光を映し、ガラスはどう空間を透過させるか。素材の美しさを最大限に引き出すために壁を自由にした。

どちらも「壁を構造から解放する」という同じ原理に立っている。しかし到達した場所はまるで違う。サヴォア邸が「住むための機械」だとすれば、バルセロナ・パビリオンは「素材でつくった詩」だ。