第15章|電灯と暖房が変えた夜と冬
産業革命のインテリア革命
産業革命と聞くと、蒸気機関、紡績工場、石炭の煙を思い浮かべるかもしれない。
しかし産業革命が室内にもたらした変化は、工場の煙突よりもずっと身近な3つのものに凝縮されている。
灯り。暖かさ。壁の模様。
夜を明るくし、冬を暖かくし、壁を美しくする。──この3つの技術革新が、それまで王侯貴族だけのものだった「快適で美しい室内」を、一般の人々のもとへと開放した。
しかし同時に、「安くてたくさん」の量産品は、室内を装飾過剰の混沌にも陥れた。解放と混沌。産業革命のインテリアへのインパクトは、つねにこの二面性を帯びている。
獣脂から電球へ──灯りの4つの革命
室内の照明の歴史をたどると、「暗さ」がいかに人間の生活を縛ってきたかがわかる。
第一段階:獣脂のロウソク。 一般家庭の主な光源は、牛や羊の脂肪を固めたタロウ・キャンドルだった。黄色く薄暗い炎は煙を出し、熱で脂が溶け出すと火災の危険が生じるため、約30分で交換が必要だった。肩より高い位置に置くことは不可能で(芯の手入れと溶けた脂の処理ができなくなる)、シャンデリアに使えるのは上質な蜜蝋のロウソクだけ。蜜蝋ロウソクは煙が少なく蜂蜜のような香りがしたが、途方もなく高価で、教会と富裕層だけのものだった。
第二段階:アルガンランプ(1780年)。 スイスの物理学者フランソワ=ピエール=アメデ・アルガンが発明した(英国特許は1783年)。中空の円筒形芯を2重の金属管で挟み、ガラスの煙突で覆う。芯の内側と外側の両方から空気が流れることで完全燃焼が実現し、煙が出ない。パリでこのランプに出会ったトーマス・ジェファーソンは、1784年に「ロウソク8本から10本分の明るさ」と驚嘆した。明るさは従来の5倍から10倍。1850年ごろまで、照明の標準であり続けた。
第三段階:ガス灯。 ウィリアム・マードックが1792年にコーンウォール州レドルースの自宅で石炭ガスの実験を始め、1798年にバーミンガムのボールトン&ワット工場を照明した。フレデリック・ウィンザーが1807年6月4日、ジョージ3世の誕生日を祝ってロンドンのパルマル通り南側に13基のガス灯を灯した。1812年に世界初のガス会社「ロンドン・アンド・ウェストミンスター・ガス・ライト・アンド・コーク・カンパニー」が議会から勅許を得る。1814年のクリスマスにはロンドン全域でガス灯の点灯が始まった。アメリカではボルティモアが1816年に、パリは1820年にガス灯を導入している。
第四段階:白熱電球。 イギリスのジョセフ・スワンが1878年12月18日、ニューカッスル化学協会で白熱炭素ランプの最初の公開実験を行った(ランプは明るく灯った後、壊れた)。1879年1月から2月にかけて成功した実験を重ね、1880年12月にノーサンバーランドのクラグサイド邸が「世界で初めて家庭用電気照明を配線された家」になった。1881年にはサヴォイ劇場が電灯のみで照明された世界初の公共建築物となった。
一方アメリカでは、トーマス・エジソンが1879年10月21日から22日にかけて炭化綿糸フィラメントで13.5時間から14.5時間の点灯に成功し、11月1日に特許を取得。竹のフィラメントで寿命1200時間を実現し、1879年12月31日のメンロパーク公開実験で商業化への道を開いた。特許訴訟の末、1883年に両者は合併して**エジソン・アンド・スワン・ユナイテッド電灯会社(エジスワン)**を設立した。
──獣脂から電球まで、およそ100年。この間に、室内の「夜」はまったく別のものになった。
灯りが変えたもの──家具の配置、部屋の使い方
照明の進化は、単に「明るくなった」だけの話ではない。室内空間そのものの使い方を根底から変えた。
ロウソクやオイルランプの時代、人々はひとつの光源のまわりに集まるしかなかった。家具は光が届く範囲に配置され、暗がりは「使えない空間」だった。読書も裁縫も食事も、すべてが光源の近くで行われた。
電灯はこの制約を一掃した。天井のシャンデリア、壁のブラケット、テーブルのスタンドランプ──複数の光源を部屋中に配置できるようになったことで、家具の配置は「光が届くかどうか」ではなく「どう使いたいか」で決められるようになった。
暖炉のそばに集まる必要もなくなった(次に述べるセントラルヒーティングの普及と相まって)。窓際に机を置く必然性も薄れた。部屋のどこでも、何でもできる。──この「自由」は、20世紀のモダニズム建築が追求する「自由な平面」(第17章)の物理的な前提条件でもあった。
暖炉が消えた日──セントラルヒーティングの衝撃
灯りと並んで、産業革命が室内にもたらしたもうひとつの大きな変化が暖房だ。
床下に温水や蒸気を通して部屋全体を暖めるセントラルヒーティングのアイデア自体は古い。ローマのハイポコースト(床下暖房)は紀元前からあったし、韓国のオンドル(温突)は今も使われている。しかしこれらの技術はヨーロッパの中世に途絶え(ビザンツとアラブ世界、そして13世紀のシトー会修道院を例外として)、西洋の室内はながらく暖炉に依存し続けた。
転機は1784年、ジェームズ・ワットが自らのオフィスに蒸気管を通して暖房したことに始まる。1793年にはウィリアム・ストラットがダービーの工場にセントラル・ホットエア・ファーネス(集中熱風炉)を設計した。
実用的な暖房装置として決定打になったのは、ラジエーター(放熱器)の発明だ。ポーランド生まれのロシアの実業家フランツ・サン=ガリが1855年から1857年にかけてサンクトペテルブルクで暖房用ラジエーターを発明。1863年にはジョセフ・ネイソンとロバート・ブリッグスが垂直鍛鉄管のラジエーターを特許登録した。1874年にネルソン・バンディが最初の普及型鋳鉄ラジエーターを発明し、1880年代に鋳鉄製セクショナル・ラジエーターが広く普及した。1891年に設立されたアメリカン・ラジエーター・カンパニーが主要メーカーを統合している。
セントラルヒーティングが室内にもたらした変化は、暖炉の喪失よりもはるかに大きかった。
暖炉の時代、部屋の間取りは「暖炉をどこに置くか」で決まっていた。家族は暖炉のまわりに集まり、暖炉から離れた場所は寒くて使い物にならなかった。中世の大広間で炉が部屋の中心にあり(第9章)、煙突の発明が個室を可能にした(第9章)のも、すべては「暖」の問題だった。
セントラルヒーティングは、暖をとるという機能を部屋の一箇所から解放し、建物全体に均等に分散させた。暖炉に縛られなくなった間取りは、自由度を飛躍的に広げた。
壁紙──手仕事の贅沢から大衆商品へ
産業革命による室内の第三の革命は、壁紙だ。
手摺り(ブロックプリント)の時代、壁紙は贅沢品だった。梨の木から彫ったブロック(最大幅21インチ、手で扱える限界)を一色につき一枚用意し、浅いトレイに絵の具を入れ、紙を一枚ずつ手で摺る。ウィリアム・モリスの壁紙は30種類のブロックと15色を使い、1枚の完成に4週間かかることもあった。「セント・ジェームズ」(1881年)のデザインは、127センチの垂直リピートを2幅にわたって表現するのに68枚のブロックを必要とした。
1839年、ランカシャー州ダーウェンのポッターズ&ロスが壁紙印刷機の特許を取得した。キャリコ(綿布)印刷の技術を壁紙に応用したもので、大きな円筒ドラムのまわりにインクローラーを配置し、紙を連続して通す仕組みだ。4色のローラー式印刷機で1日400巻を刷ることができた。新しい油性インクはローラーの上を滑らかに流れた。
初期の機械印刷の壁紙は、手摺りに比べると「薄くて色が浅い」と評されたが、価格差は圧倒的だった。さらに1856年に発見されたアニリン染料が色の選択肢を広げ、コストをさらに下げた。
イギリスの壁紙税は1712年に1ヤードあたり1ペンスで始まり、1714年に1.5ペンス、1777年に1.75ペンスと上がったが、1836年に撤廃された。これも壁紙の大衆化を後押しした。
ただし、大衆化にはダークサイドもあった。ヴィクトリア朝の壁紙には砒素や鉛白が顔料として使われ、広く健康被害を引き起こしていた。1870年代に代替顔料が登場するまで、美しい壁紙は文字通り「毒」だった。
ヴィクトリア朝の「恐怖の空白」──あらゆる面を埋め尽くす
壁紙の普及は、もうひとつの現象を生んだ。**「ホラー・ヴァクイ(空白恐怖症)」**だ。
イタリアの美術評論家マリオ・プラーツ(1896~1982年)がこの言葉を使ったのは、ヴィクトリア朝の室内装飾に見られる「あらゆる面を装飾で埋め尽くす」傾向を批判するためだった。
産業革命によって、歴史上はじめて、中産階級にも「室内を飾る」ことが可能になった。かつて上流階級だけが所有した家具、壁紙、カーペット、装飾品が、機械生産によって手の届く価格になったのだ。
結果、ヴィクトリア朝の客間は凄まじい密度で物が溢れた。ガラスのショーケースに入った置物、重厚なマホガニー家具(深い彫刻入り)、型押し革や深紅のビロードの椅子張り、レース編みのアンティマカッサー、黒檀の小箱、時計、貝殻、赤いピンクッション、真珠母貝のミニチュア船、ダチョウの卵。──エタジェールやワットノットと呼ばれる多段式の飾り棚には、収集品がぎっしりと並んだ。
「アンティマカッサー」は1850年ごろに登場した、椅子の背もたれに掛ける小さな布だ。当時流行していたマカッサル油──ヤシ油にイランイランの香りを加えた整髪料──から椅子を守るためのもの。ロンドンの理髪師アレクサンダー・ローランド(1747~1823年)が広めたツヤツヤの髪型が原因で、椅子の布地が油で汚れるようになったのだ。
趣味の指南者たちも登場した。チャールズ・ロック・イーストレイク(1836~1906年)は壁紙の選び方を部屋ごとに論じ、壁を腰板(ダド)、壁面、フリーズの3段に分けて異なるデザインを施すことを推奨した。クリストファー・ドレッサーは「もし一箇所だけ装飾できるなら、天井にせよ」と助言した。
──美しい室内が「みんなのもの」になったとき、何が起きたか。それは解放であると同時に、混沌でもあった。
1851年──「すべてが並んだ日」
この解放と混沌の両面を、一つの建物のなかで世界に見せつけたイベントがある。1851年のロンドン万国博覧会だ。
会場のクリスタル・パレス(水晶宮)は、庭師出身の建築家ジョセフ・パクストンが構造技師チャールズ・フォックスとともに設計した。全長約564メートル、幅約139メートル、内部高さ約39メートル。セント・ポール大聖堂の3倍の大きさだ。3330本の鉄柱、2224本の鉄梁、205マイル(330キロメートル)のサッシバー、そして29万3000枚のガラス板──史上最大のガラス板を使った巨大なプレハブ建築が、2000人以上の労働者の手で9か月で完成した。
1万4000以上の出展者(うち約半数が英国外から)が技術、機械、科学機器、陶磁器、鉄器、家具、装飾品を展示した。5月1日から10月までの140日間で603万9195人が来場。ピーク時の10月7日には1日だけで10万9915人が訪れた。トーマス・クックが15万人の旅行を手配し、「シリング・デー」(月曜から木曜は入場料1シリング)が労働者階級にも門戸を開いた。
会場にはジョージ・ジェニングスの水洗式トイレ「モンキー・クローゼット」が設置され、82万7280人が1ペニーを払って利用した。──「1ペニーを使う(spending a penny)」がトイレの婉曲表現になった由来だ。
博覧会は18万6000ポンドの黒字を生み、その資金でヴィクトリア&アルバート博物館、科学博物館、自然史博物館がサウス・ケンジントンの「アルバートポリス」地区に設立された。
しかし、展示品のデザインの質には厳しい批判が寄せられた。共同主催者のヘンリー・コールは、翌1852年から53年にかけてマールバラ・ハウスで**「デザインの誤った原則」展**を開催し、万博で見られた装飾過剰な工業製品を名指しで批判した。リチャード・レッドグレイヴの公式報告は、色の数だけで評価され美的考慮を欠いた出展作品を酷評している。
この「デザインの質」への危機感が、デザイン改革運動を加速させ、やがて次章のアーツ&クラフツ運動へとつながっていく。
リノリウム、電気メッキ、機械織りカーペット──「量産」が変えた室内の細部
壁紙と照明と暖房だけではない。産業革命は室内のあらゆる細部に及んだ。
リノリウムは、フレデリック・エドワード・ウォルトンが1863年4月に取得した特許に始まる。1855年にペンキ缶の上に固まった亜麻仁油の膜を見たことがきっかけだった。酸化亜麻仁油にコルク粉、木粉、顔料を混ぜ、黄麻(ジュート)の裏地に塗布したもの。1864年にステインズに工場を設立。1872年にはニューヨーク・スタテン島にアメリカ工場が開かれ、その街は「リノリウムビル」と名づけられた(1930年にトラヴィスに改名)。1878年、ウォルトンは商標訴訟に敗れ、「リノリウム」は発明からわずか14年で一般名称化した──製品名が普通名詞になった最初の事例だ。
電気メッキは、バーミンガムのジョージ・リチャーズ・エルキントンとヘンリー・エルキントンが1840年に特許を取得。銅(1840年から1875年)、のちにニッケルシルバー(EPNS)の上に電気化学的に銀を薄く析出させる技術で、従来のシェフィールド・プレートより少ない銀で均一な品質の製品が大量に、安価に生産できた。1868年にはヴィクトリア女王が王室の銀器をエルキントン社にコピーさせることを許可している。
機械織りのカーペットも、手織りの贅沢品だった床敷きを中産階級に開放した。鋳鉄はクリスタル・パレスの柱から暖炉の格子、ラジエーター、庭園家具、建物の柱まで、構造材と装飾材を兼ねた。型押しガラスは、19世紀初頭の開発により、高価なカットガラスに似た装飾ガラス器を大量生産した。
──こうして「美しい室内」は、少しずつ、しかし確実に、特権階級の独占物ではなくなっていった。
電灯が開いた「自由」、そしてその先へ
産業革命が室内にもたらした変化をまとめると、こうなる。
照明の革命は、家具の配置を光源の位置から解放した。暖房の革命は、間取りを暖炉から解放した。壁紙と量産品の革命は、室内装飾を富裕層の特権から解放した。
3つの解放は、すべて「室内の自由度を広げた」という点で共通する。どこに家具を置くか。どこに壁を設けるか。どんな模様で壁を飾るか。──それまで物理的・経済的な制約に縛られていた選択肢が、技術によって一気に広がった。
しかし自由には、つねに問いがつきまとう。自由になったとき、何を選ぶのか。
ヴィクトリア朝の人々は、手に入るものを片端から室内に詰め込んだ。ホラー・ヴァクイ──空白恐怖。量産品が安くなればなるほど、室内は物で溢れかえった。
この「量産の時代」に、真正面から「否」を突きつけた人物がいる。
ウィリアム・モリス。そしてミヒャエル・トーネット。
同じ19世紀に生き、「量産と手仕事」という問いに対してまったく異なる答えを出した二人の物語が、次の章で交差する。