第30章|「機能だけでいいのか?」
モダニズム批判の高まり
1966年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)から一冊の本が出版された。
著者はフィラデルフィアの建築家、ロバート・ヴェンチューリ(1925-2018)。タイトルは『建築の複雑性と対立性(Complexity and Contradiction in Architecture)』。
建築史家ヴィンセント・スカリーは、この本の序文にこう書いた。「おそらく、ル・コルビュジエの1923年の『建築をめざして』以来、建築創造に関するもっとも重要な著作だ。」
わずか一冊の本が、モダニズムの要塞に亀裂を入れた。
この章では、1960年代から1970年代にかけて噴出したモダニズム批判の波を追いかける。その波は、やがてポストモダンという大きなうねりになって、室内空間を根底から変えていくことになる。
「Less is a Bore」──ヴェンチューリの逆襲
ヴェンチューリの本の25ページ目に、建築史上もっとも有名な皮肉がある。
ミース・ファン・デル・ローエの「Less is More(少ないことは、豊かだ)」をもじった一言。
「Less is a Bore(少ないことは、退屈だ)。」
この5語が、半世紀にわたるモダニズムの美学を正面から否定した。
ヴェンチューリの主張は、こうだ。モダニズムは「純粋さ」を追求するあまり、人間の生活が本来持っている「複雑さ」「矛盾」「多義性」を切り捨ててしまった。白い壁、ガラスの窓、機能的な家具。確かに美しい。だが、人間は「きれいに整理された空間」だけでは生きていけない。
ヴェンチューリが好んだのは、「純粋」の反対語だ。「雑種的(hybrid)」なもの。「両方同時に(both-and)」成り立つもの。「生き生きとした雑多さ(messy vitality)」。──整然とした統一よりも、ごちゃごちゃした活力のほうが、人間の暮らしにはふさわしい。
フィリップ・ジョンソンはのちにこう語った。「ヴェンチューリは我々を自由にした。一撃で鎖を解いたのだ。」
日本語訳は『建築の多様性と対立性』として1982年に鹿島出版会から出版された。
ラスベガスから学ぶ
ヴェンチューリの挑発は、さらに過激になっていく。
1972年、ヴェンチューリは妻のデニス・スコット・ブラウンとスティーヴン・アイゼナワーとともに、『ラスベガス(Learning from Las Vegas)』を出版した。1968年にイェール大学のスタジオ授業として行われたフィールドワークがもとになっている。
研究対象は、ラスベガスのストリップ。巨大なネオンサイン、けばけばしいカジノのファサード、テーマパーク的なホテル。──モダニズムの建築家が最も軽蔑するものばかりだ。
しかしヴェンチューリたちは、それを真面目に分析した。そして重要な概念を提出した。
「ダック(duck)」 と 「装飾された小屋(decorated shed)」。
「ダック」とは、建物全体が象徴的な形をしている建築。たとえば、アヒルの形をしたアヒル料理店(これが名前の由来だ)。モダニズムの建築はしばしばこれに陥る──建物の形そのものが「俺は先進的だ」と主張する。
「装飾された小屋」とは、普通の箱形の建物に看板や装飾をつけたもの。ラスベガスのカジノがまさにそうだ。建物の構造はシンプルだが、表面の記号やイメージで語りかける。
ヴェンチューリたちは宣言した。「メインストリートはほぼ正しい(Main Street is almost all right)。」
ラスベガスの俗悪な看板のほうが、モダニズムの「純粋な」建築よりも、人間のコミュニケーション欲求に正直に応えている。──これは、建築のエリート主義に対する正面からの挑戦だった。
日本語訳は『ラスベガス』として1978年に鹿島出版会から出版されている。
ジェイン・ジェイコブズ──街路から見た反乱
建築家の外部からも、モダニズムへの痛烈な批判が放たれていた。
ジェイン・ジェイコブズ(1916-2006)。建築の専門教育を受けていない──雑誌『アーキテクチュラル・フォーラム』の副編集長だった彼女が、1961年に出版した『アメリカ大都市の死と生(The Death and Life of Great American Cities)』は、都市計画の世界に爆弾を落とした。
冒頭の一文がすでに挑戦的だ。「この本は、現在の都市計画と都市再開発に対する攻撃である。」
ジェイコブズの標的は、ル・コルビュジエの「輝く都市(Radiant City)」構想と、それを忠実に実行したニューヨークの都市計画者ロバート・モーゼスだった。高層ビルを広い緑地で囲み、歩行者と自動車を分離し、住居・商業・工業をゾーニングで分ける。──紙の上では合理的に見えるこの計画が、実際の街を殺している、とジェイコブズは主張した。
彼女が提唱したのは、正反対の原理だ。用途の混在(住居と商店と職場が混ざり合うこと)。短い街区(歩行者が自由に動き回れる小さなブロック)。「ストリートの目」(通りに面した窓から住民が自然に監視する効果)。
ジェイコブズの本は、直接的にはインテリアの本ではない。しかし、その思想はインテリアにも深く関わっている。「人間は整理された空間よりも、雑多で活気のある空間を好む」──この洞察は、モダニズムの白い壁と機能的な家具だけの室内に対する、暗黙の批判でもあった。
建築批評家チャールズ・ジェンクスは、のちにジェイコブズの本をポストモダニズムの「最初の一撃」と呼んだ。
イタリアのラディカル・デザイン──家具で社会を批判する
1960年代後半のイタリアでは、モダニズム批判がさらに過激な形をとった。
**「ラディカル・デザイン」**と呼ばれる運動だ。デザインの世界から「社会そのもの」を批判しようとした、若い建築家たちの反乱である。
**スーパースタジオ(Superstudio)は、1966年12月にフィレンツェで結成された。アドルフォ・ナタリーニとクリスティアーノ・トラルド・ディ・フランチャが中心人物だ。彼らの代表作「連続モニュメント(Continuous Monument)」(1969年)**は、巨大な幾何学的グリッドが地球上のあらゆる風景を覆い尽くすフォトモンタージュ。砂漠にも、山脈にも、都市にも、均質な格子状の構造物が果てしなく続く。
これは建築の提案ではない。モダニズムのユートピア思想を極限まで推し進めたときの恐怖を、視覚的に示した「警告」だった。すべてを合理的に計画し、標準化し、均質化する。──その行き着く先が、このディストピアだ。
アーキズーム・アソチアーティ(Archizoom Associati)も同じ1966年にフィレンツェで結成された。アンドレア・ブランツィ、ジルベルト・コレッティ、パオロ・デガネッロ、マッシモ・モロッツィの4人。スーパースタジオとは同じフィレンツェ・シーンの「双子」のような存在で、1966年には合同展「スーペルアーキテットゥーラ」も開いている。
アーキズームの代表作は**「ノンストップ・シティ(No-Stop City)」(1969-70年)**。「建築のない都市」を構想した。均質な構造の中に「移動式劇場、綴じられていない本、平面図のない部屋」が漂う。──建築という「形」そのものを解体しようとする、ラディカルの極致だった。
グローバル・ツールズ(Global Tools)(1973-75年)は、これらの運動を統合する試みだった。スーパースタジオ、アーキズーム、そしてエットーレ・ソットサスやガエターノ・ペッシェ、編集者アレッサンドロ・メンディーニらが参加。工業デザインに対抗して「手の技術」を追求する実験的な「反学校」だった。3年間にワークショップとハプニングを重ねたが、2冊のブレティンを残して解散した。
ガエターノ・ペッシェの「政治的な椅子」
ラディカル・デザインの中から、ひとつの椅子を取り上げよう。
ガエターノ・ペッシェ(1939-2024)が1969年にC&Bイタリア(のちのB&Bイタリア)のためにデザインしたUP5チェア。通称**「ドンナ(女性)」**。
素材は発泡ポリウレタン。寸法は高さ約103センチ、幅約120センチ、奥行き約130センチ。巨大で、豊満で、明らかに女性の身体を模した形状をしている。
そしてこの椅子には、球体のオットマン(UP6)が紐でつながれている。
ペッシェは明言した。「これは女性に対する私の見方を表現したデザインだ。女性は必然的に自分自身の囚人である。これは囚人の伝統的なイメージだ。」足枷のように椅子と結ばれた球体は、女性を縛る社会的拘束の比喩だ。
ペッシェはUP5を「デザイン史上最初の政治的オブジェクトのひとつ」と呼んだ。
この椅子が重要なのは、家具に「社会的メッセージ」を持ち込んだからだ。イームズの椅子は「快適さ」を追求した。ヤコブセンの椅子は「美しい形」を追求した。ペッシェの椅子は「意味」を追求した。──座り心地よりも、「この椅子は何を語っているか」が重要なのだ。
この発想の転換が、ポストモダンへの道を開く。
プルーイット=アイゴー──モダニズムの「死亡日時」
批判は言葉だけにとどまらなかった。
1972年3月16日、セントルイスのプルーイット=アイゴー住宅団地で、最初の建物が爆破解体された。4月21日には、テレビ中継のもとで追加の爆破が行われた。
この団地を設計したのはミノル・ヤマサキ──のちにワールドトレードセンターを設計する建築家だ。1954年に完成した33棟の11階建て住棟は、約1万人の住民のために設計されていた。均質な住棟、清潔な空間、合理的な配置。──モダニズムの理想をそのまま形にしたような公営住宅だった。
しかし入居からわずか数年で、犯罪と荒廃の巣窟と化した。エレベーターは故障し、共用廊下は危険地帯になり、住民は次々と退去した。最終的に、建物を爆破するしかなかった。
建築批評家チャールズ・ジェンクス(1939-2019)は、1977年に出版した『ポストモダン建築の言語(The Language of Post-Modern Architecture)』で、モダニズムの「死亡日時」を宣言した。
「モダン建築は、1972年7月15日、午後3時32分(あるいはそのあたり)に、ミズーリ州セントルイスで死んだ。」
この日付と時刻は、ジェンクスによる修辞的な演出だった。実際の最初の爆破は3月16日だ。しかし、この一節はあまりにも鮮烈で、以後「モダニズムの死」の代名詞として引用され続けることになる。
ただし、近年の研究者たちはこの物語を批判している。カリフォルニア大学バークレー校のキャサリン・ブリストルは、プルーイット=アイゴーの失敗が建築設計の問題ではなく、連邦政府の予算削減、白人住民の流出(ホワイトフライト)、人種差別に起因することを実証した。建物の「設計が悪かった」のではなく、「社会が壊れていた」のだ。
しかし、爆破の映像が与えたインパクトは絶大だった。テレビに映し出される崩壊する高層住宅。──それは「モダニズムの理想が崩れる瞬間」の、強烈な視覚的メタファーとなった。
「ダブル・コーディング」──二重の言語で語りかける
ジェンクスの『ポストモダン建築の言語』は、単なる批判にとどまらなかった。破壊のあとに、新しい原理を提示したのだ。
それが**「ダブル・コーディング(double coding)」**だ。
ジェンクスはこう主張した。モダニズムの建築は「専門家にしかわからない言語」で語っていた。自由な平面、ピロティ、水平連続窓。──建築家同士なら理解できるが、そこに住む一般の人々には何も伝わらない。
ポストモダンの建築は、2つの言語を同時に使うべきだ。建築家に向けた「形式的な意味」と、一般大衆に向けた「親しみやすい記号」。──柱やアーチやペディメントといった歴史的な形態は、専門家でなくても「何か立派なもの」「何か荘厳なもの」として感じ取れる。それを現代の文脈に置き直すことで、建築は再び「誰にでも語りかけるもの」になる。
「建築は多元主義に、都市とグローバルな文化の多様性に応答しなければならない。そして使用者の多様な趣味と視覚的コードを認めなければならない。」
日本語訳は竹山実訳『ポスト・モダニズムの建築言語』として1978年にA+Uから出版された。
建築から室内へ──批判が変えたもの
この章で見てきたモダニズム批判を、室内空間の視点から整理しよう。
ヴェンチューリは、室内に「複雑さ」と「矛盾」を取り戻した。白い壁と機能的な家具だけの空間は、人間の暮らしの「ごちゃごちゃした活力」を殺してしまう。装飾を恐れるな。矛盾を抱え込め。「少ないことは退屈だ」。
ジェイコブズは、室内に「雑多さ」の価値を教えた。整理された空間よりも、用途が混在し、人の動きが交差する空間のほうが、生き生きとしている。
ラディカル・デザインは、家具に「意味」を持ち込んだ。椅子は「座るためのもの」であると同時に、社会への問いかけでもありうる。ペッシェのUP5は、フェミニズムの問題を一脚の椅子で表現した。
ジェンクスは、室内に「二重の言語」を求めた。専門家だけがわかるミニマルな空間ではなく、誰もが「何か」を感じ取れる室内。歴史の記憶を呼び覚ます形態。物語を語る装飾。
──これらの批判は、すべてひとつの問いに収斂する。
「人間は、意味のない空間に耐えられるのか?」
答えは「ノー」だった。
そして1981年、この「ノー」を最も鮮烈に、最もカラフルに、最も衝撃的に表現したグループが、ミラノに誕生する。
次の章で、その名前を明かそう。