第9章|タペストリーは「持ち運べる宮殿」だった
西欧中世の大広間文化
中世ヨーロッパの城を訪れた客が最初に通される場所は、**大広間(グレートホール)**だった。
食事をするのも、裁判を開くのも、客を迎えるのも、使用人が夜を過ごすのも、すべてこの一室で行われた。食堂であり、法廷であり、寝室であり、宴会場である。「部屋の用途を分ける」という発想が、まだ存在しなかった時代の万能空間だ。
現存する中世の大広間のなかで最も壮大なのは、ロンドンのウェストミンスター・ホールだろう。1097年から1099年にかけてウィリアム2世の命で建てられたこの大広間は、長さ73.2メートル、幅20.7メートル。壁の厚さは2メートルにも及ぶ。
1393年にリチャード2世が命じた大改修で、大工の棟梁ヒュー・ハーランドによるハンマービーム・ルーフ──柱なしで大空間を覆う巧みな木造屋根──が架けられた。サリー州から運ばれたオーク材で組まれたその屋根は、重さおよそ660トン。イングランドに現存する中世最大の無柱の木造屋根だ。
大広間の内部には、精密な社会秩序が空間に刻み込まれていた。奥の一段高い壇(高さ38~40センチメートル)に、城主と貴賓が座る。ここに置かれる「常設テーブル」──食事のたびに組み立てたり片付けたりしなくてよい固定式のテーブル──を持てるのは、最も裕福な領主だけだった。それ以外は、脚を折りたたんで片付けるトレッスルテーブル(折りたたみテーブル)を使った。
食事が終わると、テーブルは片付けられ、使用人たちは床に敷いたイグサの上で眠った。城主とその家族だけが、大広間の上階にある「ソーラー」と呼ばれる私室に退いた。
──たった一室で、これだけのことが行われた。
大広間のインテリア──床・壁・家具の実態
中世の大広間の室内は、現代の感覚からするとかなり過酷だった。
床は、踏み固めた土か石の上にイグサやワラを敷いたものだった。汚れたら取り替えるのだが、「いつ取り替えるか」の基準はかなり緩かったらしい。人文学者エラスムスは、イグサの下にはビール、油脂、骨の欠片、犬や猫の排泄物、そして「ありとあらゆる不潔なもの」が溜まっていると嘆いている。ラベンダーやフェンネルなどの香草を混ぜて臭いを和らげることもあったが、根本的な解決策ではなかった。
家具は驚くほど少なかった。最も一般的な家具は**チェスト(長持)**だ。衣服、文書、鍋、食器──何でもこのなかに入れた。蓋を閉じればベンチにもなる。いわば中世版の収納兼ベンチだ。
ベッドは城主と家族だけのもので、木の枠にロープか革のスプリングを張り、その上にワラの敷布団、ウール、鵞鳥(がちょう)の羽根布団を重ねた。ベッドの周囲には重い布のカーテンが吊られ、プライバシーを確保するとともに、すきま風を遮断した。
椅子は城主と最も身分の高い客人だけが使うもので、ほかの全員はベンチに座った。大広間にある唯一の椅子は、しばしば天蓋つきの荘厳なものだった。──現代の英語で議長を「chairman」と呼ぶのは、「椅子に座る人」という意味だ。椅子に座ること自体が権力の象徴だった時代の名残だ。
そして、これらの家具のほとんどが分解して運べるようにつくられていた。中世の王侯貴族は一箇所にとどまらなかったからだ。
「引っ越し」が日常だった時代
中世の王や貴族がなぜ一箇所に住まなかったのか。
理由はいくつかある。まず、各地の領地を巡回して支配の実態を示す必要があった。次に、一箇所にとどまると、その周辺の食料や燃料が底をつく。大人数の宮廷を養い続けるには、定期的に移動するしかなかった。
イングランド王室には「ウォードローブ」と呼ばれる部門があり、そのなかに「リムーヴィング・ウォードローブ(移動担当部門)」が置かれていた。1220年代から記録が残るこの部門は、宮廷が移動するたびに衣服、宝物、文書、武器などを安全に輸送する役割を担った。
1265年、レスター伯爵夫人がドーバー城に到着したときの荷物は、140頭以上の馬が運ぶ大荷駄隊だった。この荷物のなかに、タペストリーが含まれていたことはまず間違いない。
なぜなら、タペストリーこそが「移動する宮廷」の核心的なインテリアだったからだ。
タペストリー──絵画の52倍の価値
タペストリーは、中世で最も高価な芸術品だった。絵画よりもはるかに高い。
メトロポリタン美術館の研究によれば、当時の「牛の価値」を基準にすると、「貴婦人と一角獣」級のタペストリー1枚はおよそ牛52頭分──労働者のおよそ9年分の賃金に相当した。同じ大きさの油彩画は牛5頭分程度。タペストリーは絵画の10倍以上の価値があったことになる。
この価格差は、制作にかかる労力の違いを反映している。
熟練した父子の織り手が、1平方フィート(約930平方センチメートル)を織るのに2か月かかった。「貴婦人と一角獣」のように高さ3.7メートル、幅4.7メートルに及ぶ大作となると、何年もの作業が必要だった計算になる。素材も高価だ。粗いウールだけならまだしも、そこに絹が加わると費用は4倍に跳ね上がる。金糸を織り込めば、ウールの20倍から50倍にもなった。
主要な産地は、フランドル地方のアラス、トゥルネー、そしてブリュッセル。とくにアラスは圧倒的な名声を誇り、英語では「アラス(arras)」がタペストリーの同義語になったほどだ。1423年から1467年のあいだ、ブルゴーニュ公の庇護のもとで59人以上の親方織り手がアラスで活動していた。
「掛ければ宮殿」──タペストリーの5つの機能
タペストリーは、単なる壁飾りではなかった。少なくとも5つの実用的な機能を兼ね備えていた。
第一に、断熱。 石の壁は冷気を蓄える。分厚い毛織物を壁に掛けることで、石壁からの冷たい放射を遮断し、室温を大幅に改善できた。北ヨーロッパの長い冬を考えれば、これは生存に関わるほど重要な機能だ。
第二に、遮音。 石の壁と石の床に囲まれた大広間は、声が反響してうるさい。タペストリーの繊維が音を吸収し、会話しやすい環境をつくった。
第三に、間仕切り。 ベッドの周囲に吊り下げれば就寝スペースを区切れるし、大広間の一角をカーテン状に仕切れば即席の個室ができた。タペストリーは「動かせる壁」として機能した。
第四に、富と権力の誇示。 大広間に足を踏み入れた客が最初に目にするのが、壁いっぱいに掛けられた金糸入りのタペストリーだった。制作費が法外に高いことは誰もが知っていた。つまり、タペストリーがあること自体が「この城主はとてつもなく裕福だ」というメッセージになった。
第五に、携帯性。 そして最も重要な機能がこれだ。タペストリーは巻いて大きな帆布の袋に入れ、荷車で運べた。次の城に着いたら壁に掛ける。それだけで、無機質な石の空間がたちまち「自分の空間」に変わった。
ヘンリー8世はおよそ2,000枚のタペストリーを各地の宮殿に配備し、スコットランドのジェームズ5世は200枚を所有していた。宮廷には「タピサー」と呼ばれるタペストリー専門の管理職がおり、布の手入れ・修繕・移動の一切を取り仕切った。
序章の7つのレイヤーで考えれば、タペストリーは「壁」「暖房」「象徴」の3つのレイヤーを一枚の布で同時に満たしていたことになる。しかも「家具」のように持ち運べる。この多機能性こそが、タペストリーが中世のインテリア文化の核心に位置した理由だ。
「貴婦人と一角獣」── 中世タペストリーの最高傑作
タペストリーの芸術的な頂点を示す作品が、パリのクリュニー中世美術館に収蔵されている6枚の連作「貴婦人と一角獣」だ。
1490年から1500年ごろに制作されたこの連作は、「ミルフルール(千花模様)」と呼ばれるスタイルで織られている。深紅の背景に80種以上の草花が散りばめられ、各パネルには高貴な貴婦人とライオンと一角獣が描かれている。
6枚はそれぞれ人間の五感を象徴する。
「触覚」── 貴婦人が一角獣の角に手を触れる。「味覚」── 貴婦人が皿から菓子を取り、傍らで猿が何かを食べている。「嗅覚」── 貴婦人が花冠を編み、猿が盗んだ花の匂いを嗅ぐ。「聴覚」── 貴婦人が小型のオルガンを奏で、侍女がふいごを操る。「視覚」── 貴婦人が鏡を手に持ち、一角獣が鏡の中を覗き込む。
そして6枚目、「我が唯一の望みに(À Mon Seul Désir)」。青いテントの下で、貴婦人がネックレスを宝石箱に戻している。この謎めいたパネルの解釈をめぐっては、「感覚的な快楽の放棄」「自由意志の宣言」「第六感としての知性」など、今なお議論が続いている。
6枚の中で最大のパネルは「我が唯一の望みに」と「味覚」で、高さ約3.8メートル、幅約4.7メートル。注文主はリヨンの名門ル・ヴィスト家で、一族の紋章(赤地に青い斜め帯と三つの銀の三日月)が全パネルに描かれている。下絵はパリで描かれ、織りはフランドルの工房で行われた。
1841年、フランスの歴史的建造物監察官だったプロスペル・メリメが、ブサック城で朽ちかけていたこの連作を「発見」した。湿気とネズミで傷んだタペストリーは、作家ジョルジュ・サンドが1844年の小説『ジャンヌ』で紹介したことで広く知られるようになり、1882年にクリュニー美術館が25,500フランで購入した。
もうひとつの「タペストリー」──バイユーの刺繍
タペストリーの話をするなら、バイユーの「タペストリー」に触れないわけにいかない。ただし、これはじつはタペストリーではない。正確には刺繍だ。
タペストリーは「織り」──縦糸と横糸を交差させて、図柄と布地を同時につくる。バイユーのものは、すでにある麻布に色糸を刺して図柄を縫いつけたもの。制作技法がまったく違う。
とはいえ、この作品がインテリアの歴史において重要であることに変わりはない。
全長68.38メートル、高さ50センチメートル。9枚の麻布パネルを縫い合わせた巨大な帯状の刺繍で、58の場面がラテン語の銘文とともに、1064年から1066年のヘイスティングズの戦いに至る物語を語る。1066年2月に現れたハレー彗星まで正確に描かれている。
1070年ごろに制作されたと推定され、注文主はウィリアム征服王の異父兄弟であるバイユー司教オドと考えられている。使われた色は10色の梳毛(そもう)糸で、青は大青(ウォード)、赤と茶は茜、黄は木犀草から採った植物染料だ。アングロ・サクソン特有の綴り方や、イングランドの刺繍工に馴染みの染料が使われていることから、カンタベリーで修道女たちが制作した可能性が高いとされている。
バイユーの刺繍は本来、バイユー大聖堂の壁に掛けられていた。つまりこれもまた、壁を飾り、物語を語るインテリア装置だった。文字が読めない人にも、絵を追うだけで「征服王ウィリアムの正当性」が伝わる仕組みだ。
──アッシリアの宮殿レリーフ(第4章)が石で壁に物語を刻んだとすれば、中世ヨーロッパは布で壁に物語を織り上げた。素材は違っても、「壁に物語を載せる」という発想は、3000年の時を超えて受け継がれていた。
暖炉と煙突──「個室」が生まれた瞬間
中世の大広間を決定的に変えた技術がある。煙突だ。
初期の大広間では、部屋の中央に炉が置かれていた。四角形、円形、八角形──さまざまな形の炉が石で囲われ、そこで火が焚かれた。煙は天井の隙間やルーヴァー(通気口)、はめ殺しの窓から、なんとか外に逃げていった。
この「中央炉」方式には、大きな問題があった。煙が室内に充満するのだ。復元されたヴァイキングの住居で行われた実験では、住人が深刻な酸化ストレスと肺炎症を起こすことが確認されている。煙のせいで天井を高くする必要があり(低いと屋根材に引火する)、部屋を細かく仕切ることもできなかった。
転換は11世紀に始まった。ノルマン征服後のイングランドの城で、最初期の煙突が登場する。12世紀半ばまでに、イングランドとフランスの貴族は炉を壁際に移し、じょうご型のフードを取り付けて煙を誘導するようになった。14世紀には、壁の中を貫通する垂直の煙突が標準になった。
この技術革新の意味は、たんに「煙が出て行くようになった」だけではない。
煙突のおかげで、建物を縦に、そして横に分割できるようになったのだ。
煙が室内を巡回しなくなったので、大広間の上階に小さな部屋をつくることが可能になった。これが**「ソーラー」**──中世における最初の「個室」──の誕生だ。語源はラテン語の「solaris(太陽の)」あるいは「solus(一人の)」と言われ、多くの場合、大広間の壇に隣接する上階に位置し、日当たりの良い南向きに設計された。
ソーラーは城主とその妻が、大広間の喧騒と臭いから逃れて過ごすための部屋だった。1386年のペンブローク城の記録には、プライバシーと暖房が結びついたことを示す最初期の文献上の証拠がある。
──序章の7つのレイヤーで言えば、「暖房」のレイヤーの技術革新が、空間の構成そのものを変えたことになる。暖炉と煙突によって「個室」が生まれた。この小さな技術革新が、やがてルネサンスの書斎(第12章)、ヴェルサイユの寝室(第13章)、そして現代の「一人一部屋」の住まいへとつながっていく。
中世の大広間が教えてくれること
中世ヨーロッパの大広間とタペストリーの物語は、インテリアの本質について2つのことを教えてくれる。
ひとつは、「室内を整える」ことの優先順位は時代によって大きく違うということだ。
現代の私たちは、まず建物があり、壁があり、そこに家具を買い揃え、カーテンを吊り、飾りを置く──という順序で室内をつくる。建築が先で、インテリアは後だ。
しかし中世の王侯貴族にとっては、順序が逆だった。石の城はすでにあちこちにある。だから、その殺風景な石の空間をいかに「自分の空間」に変えるかが問題だった。答えが、タペストリーという「持ち運べるインテリア」だったのだ。
もうひとつは、インテリアの歴史は「快適さ」と「プライバシー」を求める長い歩みだということだ。
大広間は、快適でもなければプライバシーもなかった。しかし人々はそれを当然のこととして受け入れていた。煙突という技術革新が個室を可能にしたとき、人々は初めて「自分だけの空間」の心地よさを知り、もう後戻りできなくなった。
この流れは、次の章のイスラーム世界でも、東アジアでも、ルネサンスでも、そして20世紀以降でも、形を変えながら繰り返される。
──さて、次はヨーロッパを離れて、イベリア半島の南端へ向かう。
スペインのグラナダに残るアルハンブラ宮殿。ナスル朝のスルタンたちが築いたこの宮殿は、中世ヨーロッパの城とはまるで異なるインテリアの哲学を体現している。人物像を描かない代わりに、幾何学文様と光と水で、天国の似姿をこの世に出現させた。