第20章|14年間の学校が100年間のデザインを決めた
バウハウスとは何だったのか
ヴァルター・グロピウスが校長に就任したとき、バウハウスにはまだ校舎がなかった。
1919年4月、グロピウスが引き継いだのは、ヴァイマールにあった2つの既存の学校──「ザクセン大公立美術アカデミー」と「ザクセン大公立工芸学校」──を合併した、できたての教育機関だった。ヴァイマールは人口4万人ほどの小都市。ゲーテとシラーが活躍した文化の街だが、1919年当時は、第一次世界大戦の敗北とドイツ帝政の崩壊に揺れていた。
この年、ヴァイマールではもうひとつ歴史的な出来事が起きている。ヴァイマール憲法の制定だ。ドイツ史上初の民主的憲法が採択されたのと同じ街で、デザイン史上最も影響力のある学校が産声を上げた。偶然だが、象徴的な一致だった。
グロピウスが起草した設立宣言の表紙には、ライオネル・ファイニンガーが描いた木版画が印刷されていた。ゴシック大聖堂のような建物から3本の光の柱が立ち上る図像。絵画、彫刻、建築──3つの芸術がひとつの建築のもとに統合されるというヴィジョンを象徴していた。
「マイスター」と「ゲゼレ」──中世ギルドを模した教育制度
バウハウスの教育制度は、既存のどの美術学校とも違っていた。
教員は「教授」ではなく**「マイスター(親方)」と呼ばれた。学生は「学生」ではなく「レーアリング(徒弟)」。卒業すると「ゲゼレ(職人)」**の称号を得た。──中世の手工業ギルドの階層構造をそのまま借用した命名だった。
最大の特徴は、**「二重マイスター制」**だ。
ひとつの工房に、2人のマイスターがつく。ひとりは**「フォルムマイスター(形態の親方)」──芸術家。もうひとりは「ヴェルクマイスター(技術の親方)」**──職人。芸術の知識と手仕事の技術を、同時に教える。
たとえば金属工房では、画家・写真家のラースロー・モホイ=ナジがフォルムマイスターとして素材の実験を指導し、熟練の金属職人が技術指導にあたった。織物工房では、画家のゲオルク・ムッヘが色彩と形態を教え、染色技師が実技を担当した。
この制度の背景には、グロピウスの明確な問題意識があった。19世紀以降、「芸術」と「工芸」は完全に分離していた。美術アカデミーではカンバスに絵を描くことが最高の芸術とされ、家具や食器をつくることは「低級な手仕事」と見なされていた。モリスはこの分断に反旗を翻したが、結局は「手仕事の復権」にとどまった。
グロピウスはさらに先へ進もうとした。芸術と工芸を統合するだけでなく、そこに工業生産を加える。美しいものを、機械で、大量に、安く作れるようにする。──そのための教育制度が、バウハウスだった。
「予備課程」──すべてはここから始まった
バウハウスに入学すると、まず**半年間の予備課程(フォアクルス)**を受ける。
この課程を最初に担当したのは、スイス生まれの画家ヨハネス・イッテンだ。丸刈りの頭にモンク(修道服)のようなローブをまとい、授業の前に呼吸法と瞑想を行わせた。マズダズナンというゾロアスター教系の宗教を信奉しており、菜食主義とにんにくの多食を学生に勧めた。──風変わりな教師だったが、彼がつくった教育プログラムは、現代のデザイン教育の原型になった。
イッテンの予備課程で学生は何をしたか。
素材に触れた。 木、金属、ガラス、布、石、紙。あらゆる素材を手で触り、目で見て、その「質感」と「表情」を学んだ。木炭で描くだけの美術教育とは根本的に違った。
色彩を分析した。 イッテンは7つの色彩対比(明暗対比、補色対比、彩度対比など)を体系化し、色の効果を理論的に教えた。のちにこの色彩論は、ヨーゼフ・アルバースが引き継ぎ、さらに精緻化される。
形態の基本を学んだ。 円、三角、正方形。この3つの幾何学形態とそこから派生する立体──球、円錐、立方体──が、すべての造形の基礎だと教えた。
予備課程を修了した学生は、自分が進む工房を選んだ。木工工房、金属工房、織物工房、陶芸工房、壁画工房、印刷工房……。各工房で3年間の訓練を受け、卒業制作をもって「ゲゼレ」となる。
この教育システムは、現在の世界中のデザイン学校に受け継がれている。「基礎造形」の授業で素材と色彩と形態を学び、専門課程に進む──このカリキュラムの原型をつくったのが、バウハウスだった。
3つの都市──ヴァイマール、デッサウ、ベルリン
バウハウスの14年間は、3つの都市を渡り歩いた物語でもある。
ヴァイマール期(1919–1925年)
開校から6年間。芸術教育の理想を高く掲げた時期だ。
イッテンの予備課程、カンディンスキーの色彩論、パウル・クレーの造形理論──バウハウスの教育理念がこの時期に確立された。1923年には初の大規模展覧会を開催し、「ハウス・アム・ホルン」という実験住宅を建てて公開した。
しかしヴァイマールの政治状況は悪化していった。テューリンゲン州政府は右傾化し、バウハウスを「ボルシェヴィズムの温床」と攻撃した。予算は削られ、圧力は強まる一方だった。
1924年12月29日、バウハウスの閉鎖が複数の日刊紙で報じられた。契約満了の1925年3月31日をもって、ヴァイマールのバウハウスは正式に閉校した。
デッサウ期(1925–1932年)
バウハウスを救ったのは、デッサウ市長フリッツ・ヘッセだった。
デッサウはヴァイマールの北東約150キロに位置する工業都市。ユンカース航空機工場を擁し、進歩的な市政を掲げていた。ヘッセは文化顧問ルートヴィヒ・グローテとともに、グロピウスを招聘し、新校舎の建設を依頼した。
1925年から1926年にかけて、グロピウスの設計による新校舎が建設された。同時に、校長や教師が住む**マイスターハウス(親方住宅)**も近隣に建てられた。
デッサウ期は、バウハウスの黄金時代だ。新しい校舎には金属工房、織物工房、木工工房、壁画工房が入り、学生と教師が理論と実践を同時に回す理想の環境が整った。マリアンネ・ブラントのランプ、マルセル・ブロイヤーの鋼管家具、ヘルベルト・バイヤーのタイポグラフィ──20世紀デザインの名作の多くが、この時期のデッサウで生まれた。
1928年、グロピウスは校長を辞任する。後任にはスイスの建築家ハンネス・マイヤーが就いたが、マイヤーの左翼的政治活動が問題視され、1930年に解任。3代目の校長にはミース・ファン・デル・ローエが就任した。
しかしナチスの台頭は止まらなかった。1932年8月、デッサウ市議会はナチ党の圧力によりバウハウスの閉鎖を決議。ミースは学校をベルリンに移すことを決断した。
ベルリン期(1932–1933年)
ミースはベルリン郊外の旧電話工場を借り、私立学校として再出発を図った。しかし1933年1月30日にヒトラーが首相に就任し、状況は絶望的になった。
1933年4月11日、ゲシュタポ(秘密国家警察)がバウハウスを捜索し、封鎖した。ミースは再開の交渉を続けたが、ナチス当局は「ユダヤ人教師の追放」と「カリキュラムの変更」を条件として突きつけた。
ミースはこれを拒否した。
1933年7月20日、マイスター会議がバウハウスの自主解散を決議した。
ヴァイマールの開校から、14年と4か月。バウハウスの歴史は幕を閉じた。
閉鎖がもたらした「世界への拡散」
しかし、皮肉なことに、ナチスによる閉鎖こそが、バウハウスの理念を世界中に広めることになった。
グロピウスは1937年にアメリカに渡り、ハーバード大学の建築学部長に就任した。ミースも同年にアメリカに移住し、シカゴのイリノイ工科大学(IIT)の建築学科を率いた。モホイ=ナジはシカゴに「ニュー・バウハウス」を開設した(のちにイリノイ工科大学に統合)。アルバースはブラック・マウンテン・カレッジで教え、のちにイェール大学に移った。ブロイヤーもハーバードでグロピウスとともに教鞭を執った。
バウハウスの教師たちは、亡命先のアメリカで、それぞれが新しい教育機関をつくり、新しい世代のデザイナーを育てた。バウハウスの理念は、ひとつの学校の枠を超えて、世界のデザイン教育のDNAになった。
予備課程の「素材・色彩・形態」を基礎とし、専門工房で実践を積むカリキュラム。芸術と技術と産業を統合する思想。──日本の美術大学のデザイン学科も、このバウハウスの教育モデルを源流としている。
1996年、ヴァイマールとデッサウのバウハウス関連建築群はユネスコ世界遺産に登録された。わずか14年で閉じられた学校が、国際社会によって「人類の遺産」と認められた。
「すべてを建築に統合する」──その理想は実現したか
バウハウスの宣言、「すべての造形活動の最終目標は建築である」は、どこまで実現されたのか。
答えは、次の章にある。
デッサウの新校舎──あの建物こそが、バウハウスの理念が「形」になった場所だ。ドアハンドルから照明器具、食堂の椅子から壁の色彩計画まで、すべてが学校内の工房でデザインされ、制作された。校舎のなかに、バウハウスのすべてが詰まっている。
次の章で、その校舎のなかに入ってみよう。