インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第21章|校舎のドアハンドルまで学生がつくった

バウハウスの「室内」


1926年12月4日。デッサウ。

約1000人の来賓が、真新しい建物の落成式に集まった。

3階建てのガラスの壁面が、冬の低い陽光を受けて輝いている。鉄骨の骨格が透けて見える。角には壁がない──ガラスが角を包み込んで、建物の「重さ」を消している。従来の建築なら、角は最も頑丈に補強する場所だった。この建物は、角をガラスで開いた

設計者はバウハウス校長ヴァルター・グロピウス。実際の設計作業は、グロピウスの私設事務所の助手──カール・フィーガー、エルンスト・ノイフェルト、オットー・マイヤー=オッテンス、ベルンハルト・シュトゥルツコップ──が担った。バウハウスはまだ独自の建築学科を持っていなかったのだ(建築学科の設置は1927年)。

しかし、この建物が革命的だったのは、外観だけではない。

中に入ったとき、来賓たちは気づいたはずだ。 ドアを開ける手が触れたハンドル。廊下の天井に灯るランプ。食堂に並ぶ椅子。壁の色。──すべてが、この学校のなかで、教師と学生の手によってデザインされ、つくられたものだった。

校舎そのものが、バウハウスの理念のショールームだった。


5つの翼──「正面のない建物」

デッサウのバウハウス校舎は、空から見ると風車のような形をしている。

5つの棟が、それぞれ異なる角度で接続している。従来の学校建築のように左右対称の「正面」を持たない。どの方角から近づいても、異なる表情が見える。グロピウスはこれを**「正面のない建物」**と呼んだ。

ひとつずつ見ていこう。


工房棟──ガラスのカーテンウォール

3階建て。バウハウスの「顔」ともいえる棟だ。

外壁の全面がガラスのカーテンウォールで覆われている。鉄骨のフレームにガラスを嵌め込んだこの壁面は、構造体ではない。文字通り「カーテン」のように建物を包んでいるだけだ。荷重はすべて、外壁から引っ込んだ位置に立つ鉄筋コンクリートの柱が支えている。

グロピウスは歪みを防ぐために高品質のクリスタルミラーガラスを採用した。このガラスは外から見ると周囲の風景を映し込み、中から見ると外の景色がパノラマのように広がる。

外を歩く人は、ガラス越しに工房の中が見える。学生が作業している姿が、そのまま「展示」になる。建物の内側と外側の境界が、ガラス一枚で曖昧になる。──第17章で見たル・コルビュジエの「水平連続窓」と同じ思想だが、バウハウスはそれをさらに徹底し、壁一面をガラスに変えた。

ちなみに、グロピウスがこの「ガラスの角」を最初に試みたのは、バウハウス校舎が初めてではない。1911年、28歳のグロピウスはアドルフ・マイヤーとともにファグス靴型工場(アルフェルト・アン・デア・ライネ)を設計している。そこですでに、鉄骨構造によって建物の角の補強を不要にし、ガラスで角を包む手法を実現していた。デッサウの校舎は、15年前の実験をさらにスケールアップしたものだった。


アトリエ棟(プレラーハウス)──学生たちの住居

5階建て。学生と若手マイスターのための居住棟だ。

28戸の住居が入っている。ひとつの住戸の広さは24平方メートル──東京の一般的なワンルームマンションとほぼ同じだ。各住戸にはバルコニーが張り出しており、ファサードにリズムを与えている。

24平方メートルという面積は、現代の感覚では決して広くはない。しかしバウハウスの学生にとって、この個室は贅沢だった。自分だけの空間で制作に没頭できる。しかも校舎と直結しているから、工房へは歩いて数十秒。生活と制作が完全に一体化した環境だった。

現在、このアトリエ棟の一部は宿泊施設として公開されており、誰でも予約すれば「バウハウスの学生の部屋」に泊まることができる。


ブリッジ(渡り廊下)──空中に浮かぶ管理棟

2階建ての渡り廊下が、工房棟と北棟(職業学校)をつないでいる。

この渡り廊下は単なる通路ではない。グロピウスの校長室を含む管理部門が入っている。空中に架けられた細い直方体の中に、学校の頭脳が収まっていた。

下を道路が通り抜ける。建物は道路の上を「またぐ」形になっている。建築が地面に縛られていない──空中に機能を配置するという、モダニズム建築の大胆な実験だった。


祝祭エリア──講堂と食堂

1階建ての平屋部分が、アトリエ棟と北棟の間にある。

ここには講堂(バウハウス・ステージ)食堂が入っている。講堂ではオスカー・シュレンマーの「トリアディック・バレエ」が上演され、食堂では教師と学生が同じテーブルで食事をとった。ヒエラルキーを超えた交流の場。それがバウハウスの食堂だった。

そして──この食堂の椅子も、講堂の座席も、すべてバウハウスの工房でつくられたものだった。


工房がつくった「室内のすべて」

ここからが本章の核心だ。

バウハウスのデッサウ校舎は、たんにグロピウスが設計した建物ではない。各工房が校舎の内装のすべてを担当したのだ。ひとつずつ見ていこう。


ドアハンドル──グロピウス自身のデザイン

校舎のドアを開けるとき、手が最初に触れるもの。ドアハンドルはグロピウス自身がデザインした。

丸い管を直角に曲げただけのシンプルな形状。装飾はない。握ったときの手のフィット感だけが設計の基準だ。

このドアハンドルは、現在でもレプリカが販売されている。建物の入口から出口まで、「デザインされていない場所はない」──その思想の最初の接点が、ドアハンドルだった。


照明器具──マリアンネ・ブラントと金属工房

金属工房は、フォルムマイスターのラースロー・モホイ=ナジが率いていた。

この工房から生まれた最も有名な製品が、マリアンネ・ブラントのランプだ。ブラントは1923年にバウハウスに入学した女性デザイナーで、金属工房に配属された当初は「女が金属を扱うのか」という偏見に直面した。しかし彼女の才能はすぐに認められ、工房の中心メンバーになっていく。

ブラントがデザインしたランプは、球体や半球体を組み合わせた幾何学的なフォルムが特徴だ。デッサウ校舎では、ブラントに加えてハンス・プジルエンベルマックス・クライエフスキーがデザインしたランプが各所に設置された。

注目すべきは、これらのランプが**「学生の習作」にとどまらなかった**ことだ。ブラントはデッサウの工業パートナーと密接に協力し、デザインの段階から量産を前提にしていた。100点以上のランプデザインが工業生産され、商業的にも成功を収めた。

芸術でもなく、工芸でもなく、「工業製品としてのデザイン」。──バウハウスが追求していたのは、まさにこれだった。


壁の色彩計画──ヒンネルク・シェーパーと壁画工房

壁画工房を率いたのはヒンネルク・シェーパーだ。

シェーパーは、壁の色を「装飾」ではなく**「空間認知の道具」**として使った。色によって空間の用途を直感的に伝える。たとえば、工房エリアは活動的な色調、居住エリアは落ち着いた色調、共用スペースは中間の色調──というように、色で建物内の方向感覚をつくるのだ。

シェーパーは以前、ミュンスター大学病院でも同様の色彩計画を手がけていた。デッサウ校舎では、とくに職業学校棟とアトリエ棟で彼の色彩計画が実施された。ただし、予算や時間の制約もあり、シェーパーの計画はすべてが実現したわけではなかった

それでも、「壁の色が空間の使い方を教えてくれる」という発想は先駆的だった。今日の病院や学校、オフィスビルで使われる「色彩によるゾーニング」の源流が、ここにある。


家具──マルセル・ブロイヤーの鋼管椅子

校舎の家具を一手に引き受けたのが、家具工房主任のマルセル・ブロイヤーだ。

講堂、食堂、校長室、学生アトリエ──すべてに、ブロイヤーがデザインした鋼管家具が置かれた。クロムメッキの鋼管を曲げてフレームをつくり、布や革のシートを張る。木の家具とはまったく異なる、軽やかで透明な存在感。

ブロイヤーの鋼管椅子については、次の章で詳しく取り上げる。ここでは、校舎の家具がすべてひとりのデザイナーの手で統一されていたという事実を記しておこう。それは単に「揃いの家具を入れた」という話ではない。空間の思想と家具の思想が、同じ原理で貫かれていたということだ。


「統合」の思想──校舎というマニフェスト

グロピウスは1926年、デッサウ校舎の建設仕様をこう記している。

「鉄筋コンクリート造のフレームに煉瓦充填。石と鉄の天井を梁で支持。窓はすべて二重溝の異形鉄にクリスタル板ガラス。外壁はセメントプラスターにカイム社のミネラル塗料。」

建築の仕様は淡々としている。しかしこの建物の本当の革新は、仕様書には書かれていない。

ドアハンドルから照明器具、壁の色から椅子まで、すべてのレイヤーが同じ設計思想で貫かれていること。序章で提示した「室内を構成する7つのレイヤー」──床・壁・天井・家具・照明・暖房・象徴──を、バウハウスはひとつの学校のなかで同時に設計してみせたのだ。

それまでの建築では、建物を建築家が設計し、家具は家具屋に任せ、照明は照明屋に任せ、壁の色は塗装屋に任せた。各レイヤーがバラバラに発注され、バラバラにつくられた。

バウハウスは違った。建築も家具も照明も壁の色も、すべてがひとつの思想のもとに統合された。グロピウスの宣言「すべての造形活動の最終目標は建築である」が、デッサウの校舎で初めて文字通り実現した。


「ショールーム」としての校舎

この統合には、実利的な目的もあった。

バウハウスは常に資金難に苦しんでいた。学校を維持するために、工房でつくった製品を売る必要があった。デッサウの校舎は、来客に対する最大のプレゼンテーションだった。

「このランプを見てください。うちの金属工房でつくりました。量産可能です。」 「この椅子をご覧ください。鋼管を曲げるだけですから、工場で大量に生産できます。」 「壁の色にも意味があります。色彩計画という新しい分野を、うちの壁画工房が開拓しました。」

──校舎を歩くだけで、バウハウスの全工房の成果を一覧できる。それは**「歩くカタログ」**だった。

実際、ブラントのランプは工業生産に移行して商業的に成功し、ブロイヤーの鋼管家具はトーネット社にライセンスされて量産された。バウハウスの「つくって売る」モデルは、今日のデザインスクールと企業の協業の先駆けだった。


現在のデッサウ校舎

1996年、デッサウのバウハウス校舎はユネスコ世界遺産に登録された。

第二次世界大戦で損傷を受け、戦後は東ドイツ時代に部分的な改修が行われた。1996年から2006年にかけて、歴史的保存の原則に基づく本格的な修復が実施された。

現在、校舎はバウハウス・デッサウ財団が管理し、博物館、研究機関、教育施設として使われている。アトリエ棟の学生寮には宿泊することもできる。24平方メートルの部屋で一晩を過ごせば、1926年の学生たちが見た景色を追体験できる。

ガラスのカーテンウォールは、100年前と変わらず光を透過させている。ドアハンドルは、今でもグロピウスのデザインのまま、訪問者の手を迎える。


校舎からひとつの椅子へ

ここまで、バウハウスの校舎全体を見渡してきた。ドアハンドル、ランプ、壁の色、椅子──すべてが統合された「総合芸術作品」としての校舎を。

次の章では、そのなかからひとつの椅子を取り出す。

食堂にも、講堂にも、校長室にも置かれていた鋼管の椅子。23歳の家具工房主任が、自転車のハンドルバーを眺めて思いついたという椅子。

マルセル・ブロイヤーのワシリーチェア

パイプが椅子になった日の話をしよう。