第8章|お客さまは横になって飲む
ギリシャ・ローマの接客空間
古代ギリシャの宴会に招かれたところを想像してみよう。
部屋に通されると、壁沿いにずらりと寝椅子が並んでいる。あなたはその一台に横たわる──「座る」のではなく、左肘をクッションに預けて「横になる」のだ。低いテーブルが寝椅子のそばに置かれ、そこにワインとオリーブと料理が並ぶ。
同じように横たわった客人たちが、飲みながら議論を交わす。政治について。哲学について。恋愛について。酒が回るにつれて議論は白熱し、やがて歌やゲームが始まる。──これがシンポシオン(饗宴)、古代ギリシャの宴会だ。
プラトンが哲学的対話を繰り広げた場面をまとめた書物の名前が『饗宴(シンポシオン)』であることは偶然ではない。ギリシャ人にとって、宴会とは単なる飲み食いではなく、知的交流の場だった。そしてその場を成り立たせていたのは、寝椅子を中心にした室内の設計だった。
ギリシャで生まれたこの「もてなしの室内文化」は、やがてローマに引き継がれ、さらに壮大なスケールに発展する。ポンペイの邸宅に残る精緻な壁画やモザイク。世界初の床暖房「ハイポコースト」。そして建築家ウィトルウィウスが書いた、世界最古の「室内環境の理論書」。
第Ⅱ部の最後を飾るこの章では、地中海世界が生んだ「もてなしのインテリア」を見ていく。
7〜15台の寝椅子を並べる部屋──シンポシオンの空間設計
ギリシャの饗宴で使われた寝椅子は、**クリネ(kline)**と呼ばれる。木製のフレームに布やクッションを載せたもので、一台に1〜2人が横になれるサイズだった。
シンポシオンが行われる部屋は、クリネの台数で設計された。壁に沿ってコの字型にクリネを並べ、真ん中に開いたスペースには給仕の通り道と余興(音楽や踊り)のための空間を残す。
標準的なシンポシオンの部屋には7台から15台のクリネが並べられたとされている。7台なら14人、15台なら30人。──つまり、部屋の「広さ」はクリネの台数で決まり、クリネの台数は参加者の人数で決まった。
この設計原理は、きわめて明快だ。
「何人を招くか」→「何台のクリネが必要か」→「どのくらいの広さの部屋が必要か」
現代のレストランが客席数から店の面積を割り出すのと同じ論理が、2500年前のギリシャにすでに適用されていた。しかもこの場合、「椅子に座る」のではなく「寝椅子に横たわる」のだから、一人あたりに必要な面積は椅子よりもずっと大きい。だからこそ、部屋の設計においてクリネの配置は最重要事項だったのだ。
序章の7つのレイヤーで言えば、ここでは「家具」のレイヤーが室内設計の出発点になっている。壁の装飾よりも天井の高さよりも、まず「クリネを何台並べるか」──家具が空間の寸法を決定する。
ちなみに、なぜギリシャ人は座らずに横になったのか。確定的な答えはないが、一説には「横になる姿勢は、立っている人(奴隷や給仕)よりも高い社会的地位を示す」からだとされる。横になってリラックスできるということ自体が、労働から解放された自由人の特権だったのかもしれない。
ポンペイの壁画とモザイク──床と壁が「見栄」を語る
ギリシャの饗宴文化は、ローマに引き継がれた。
ローマ人も宴会で寝椅子を使ったが、ローマでは寝椅子を3台ずつ向かい合わせにコの字型に配置する**トリクリニウム(triclinium)**という形式が定着した。「3つの寝椅子の部屋」がそのまま「食堂」の意味になったほどだ。
しかしローマが加えた決定的な要素は、壁と床の装飾だ。
79年のヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれ、18世紀に発掘されたポンペイの邸宅群には、当時の壁画とモザイクがほぼそのまま残されている。これは、古代の「室内装飾」を知るうえで世界最大の考古学的財産だ。
壁画──ポンペイの四つの様式
ポンペイの壁画は、研究者によって4つの時代様式に分類されている。
第一様式(紀元前2世紀頃) は、壁面を漆喰で大理石のように仕上げる技法。本物の大理石を使う余裕がない家でも、漆喰の塗りと彩色で大理石そっくりに見せることができた。現代で言えば、壁紙で大理石風の模様を再現するのと同じ発想だ。
第二様式(紀元前1世紀頃) は、壁面に奥行きのある建築空間を描く「だまし絵」の技法。壁の向こうに列柱が続いているように見せたり、窓から外の景色が見えているように描いたりする。実際の部屋よりも広く感じさせる視覚的トリック──これは15世紀ルネサンスの遠近法にも先立つ、空間の「イリュージョン」だ。
第三様式 はより装飾的で繊細な様式、第四様式 は華麗で劇場的な様式へと発展した。
いずれの様式にも共通しているのは、壁面が「ただの壁」であることを拒否していることだ。大理石に見せかけ、奥行きを幻出し、神話の世界を描き出す。壁は「室内を拡張する装置」として活用されていた。
モザイク──床が見せる芸術
ローマ人は壁だけでなく、床にも並外れた情熱を注いだ。
色とりどりの小さな石片(テッセラ)を組み合わせてつくるモザイクは、幾何学的な文様から人物・動物の精緻な描写まで、驚くべき表現力を持っていた。ポンペイの「ファウヌスの家」から出土した**「アレクサンドロスのモザイク」**は、マケドニア王とペルシャ王の戦闘を描いた大作で、サイズは約5.8メートル×3.1メートル。床面にこれだけの大きさの「絵画」が描かれていたのだ。
なぜ床にここまでの芸術を施すのか。
理由のひとつは、シンポシオンの延長にある。宴会の客は寝椅子に横になっている。横になった姿勢では、視線は自然と壁や天井よりも床に向く。つまり、客が最もよく目にする面が床なのだ。だから、客をもてなすために床を飾る。──きわめて合理的な判断だ。
もうひとつの理由は、見栄だ。
ローマ社会では、住宅は持ち主の富と教養を示すショーケースだった。豪華なモザイクの床は「うちにはこれだけの職人を雇い、これだけの石材を集める財力がある」と無言で語る。玄関を入った瞬間から、訪問者は家主の経済力を足元で感じることになる。
これは、アッシリアの宮殿が壁面のレリーフで「この王は強い」と語ったのと同じ構造だ。ただし、アッシリアが「国家の権力」を壁で示したのに対し、ローマは「個人の富」を床と壁で示した。
序章のレイヤーで言えば、ポンペイの邸宅は「壁」「床」「象徴」の3つのレイヤーが完全に融合した空間だ。壁画もモザイクも、物理的には壁と床の仕上げだが、機能的には家主の社会的ステータスを発信する「象徴」装置として機能している。
ローマの暖房革命──ハイポコーストが実現した「床暖房」
ローマ人が室内にもたらした革新のなかでも、最もインパクトが大きかったのはハイポコースト──床下暖房システム──だ。
仕組みはこうだ。床を地面から60〜90センチほど持ち上げ、その下に空間をつくる。この空間を小さな煉瓦の柱で支える。建物の外に設けた炉で火を焚くと、熱い空気がこの床下の空間を通り抜け、さらに壁のなかの空洞(煙突の役割をする管)を上昇して外に排出される。
つまり、床の下を熱い空気が循環するシステムだ。
このハイポコーストが設置された部屋は、冬でも床が暖かい。壁のなかを熱気が通るから、壁面もほんのり温もる。煙や灰は室内に入らない。──現代の床暖房やセントラルヒーティングの原理を、2000年前にローマ人が実現していた。
ハイポコーストは主に公共浴場(テルマエ)で使われたが、裕福な邸宅にも導入されていた。イギリスに遺跡が残るローマ時代のヴィラ(田園別荘)にも、ハイポコーストの跡がはっきり確認できるものがある。
インテリアの歴史にとって、この発明が重要な理由はふたつある。
第一に、暖房と炉を切り離したこと。
第Ⅰ部で何度も見てきたように、先史時代から中世まで、暖房は「部屋の真ん中にある火」に依存していた。暖をとるには火のそばにいなければならず、火が室内レイアウトの中心を占めた。
ハイポコーストは、この制約を取り払った。炉は建物の外にある。室内には火がない。それなのに床が暖かい。──暖房が「部屋の中心」から解放されたのだ。
これは、はるか後の19世紀にセントラルヒーティングが暖炉への依存を終わらせたのと同じインパクトを持つ(第15章で詳しく見る)。暖房装置が室内から消えれば、間取りの自由度は飛躍的に広がる。ハイポコーストは、その可能性を古代に先取りしていた。
第二に、「床の温度」という快適さの要素を発見したこと。
人間は足裏の温度にとても敏感だ。冷たい石の床に裸足で立つと、それだけで全身が冷える。逆に温かい床に立てば、それだけで心地よい。
ハイポコーストは、床そのものを暖房装置に変えた。これは「室内の快適さは、目に見えるもの(壁画や家具)だけでなく、身体が直接触れるもの(床の温度)に大きく左右される」ということを、2000年前のローマ人が理解していたことを意味する。
ちなみに、東アジアにも「床から暖める」システムがある。韓国のオンドルだ。かまどの煙を床下の煙道に通し、床全体を暖める。仕組みはハイポコーストとよく似ている。ローマと韓国のあいだに直接の技術伝播があったかどうかは不明だが、「足元が暖かいと人間は幸せだ」という知恵に、東西の文明が独立にたどり着いていたことは興味深い。
ウィトルウィウスの『建築十書』──世界初の「室内環境論」
ローマがインテリアの歴史に残した最大の遺産のひとつが、ウィトルウィウスという一人の建築家が書いた本だ。
マルクス・ウィトルウィウス・ポッリオ。紀元前1世紀の人物で、カエサルの時代に軍事技師として活動した。彼が皇帝アウグストゥスに献呈した**『建築十書(De architectura)』**は、古代から現存する唯一の建築書であり、西洋建築史における最重要文献のひとつだ。
全10巻の内容は建築全般にわたるが、私たちの関心にとって特に重要なのは、ウィトルウィウスが室内環境について具体的に論じている箇所だ。
たとえば彼は、住宅の各部屋の向きについてこう述べている。
食堂は西向きがよい。なぜなら夕方の光が入り、夕食時に明るくなるからだ。冬の居間は南向きがよい。なぜなら冬の日差しが最も多く入るからだ。書斎は東向きがよい。なぜなら朝の光が安定しているからだ。
これは「室内の用途に応じて最適な方角を選べ」という主張であり、現代の建築設計で言う**オリエンテーション(方位計画)**の先駆けだ。
さらにウィトルウィウスは、建物に必要な3つの条件として有名な定義を残した。
フィルミタス(堅固さ)──構造的に安全であること。 ウティリタス(実用性)──使いやすいこと。 ウェヌスタス(美)──美しいこと。
この三原則は、「建物は丈夫で、使いやすくて、美しくなければならない」という、考えてみれば当たり前だが、それを明文化した最初の人物がウィトルウィウスだった。
とくに「実用性」に室内の動線や各室の配置が含まれている点は、インテリアの観点から注目に値する。ウィトルウィウスは「美しい建物」だけでなく、「住みやすい建物」を理論的に論じた最初の人物でもあったのだ。
中国の『営造法式』が「つくり方のマニュアル」だったのに対し、ウィトルウィウスの『建築十書』は「なぜそうつくるべきか」を論じた理論書だ。マニュアルが「How」を教えるとすれば、理論書は「Why」を教える。この両方が古代に出揃ったことは、人類が室内空間についてすでにきわめて深い思考を蓄積していたことを示している。
ローマの住宅──アトリウムからペリスタイルへ
最後に、ローマの住宅の全体構造を見ておこう。
ローマの裕福な市民の住宅(ドムス)は、中国の四合院と同じく「中庭型」の構成をとっていた。
玄関を入ると最初にある空間がアトリウム。天井に大きな開口部(コンプルウィウム)があり、雨水がそこから落ちて床面の浅い水盤(インプルウィウム)に溜まる。
アトリウムは家の「顔」だった。ここに祖先の肖像(イマギネス)を飾り、来客を迎え、商談をする。公的な空間だ。
アトリウムの奥に進むと、ペリスタイル──柱廊に囲まれた庭園──がある。こちらは家族のプライベートな空間で、噴水や植栽が配され、食堂(トリクリニウム)や寝室がこの庭に面して配置されていた。
つまりローマの住宅も、「手前が公、奥が私」という原則に従っている。エジプトの庶民の住居、中国の四合院──そしてアッシリアの宮殿にも見られたこの原則が、ここでも繰り返される。
人間が室内空間を設計するとき、「入口に近い場所は公的、奥まった場所は私的」という配置に自然と落ち着く。これは文明や時代を超えた、ほとんど普遍的な空間原理と言っていいだろう。
ローマの住宅には、さらに壁画、モザイク、ハイポコースト、中庭の噴水と植栽が加わる。序章の7つのレイヤーがすべて──しかも高い水準で──揃った室内空間が、ここに実現していた。
古代文明の遺産──私たちが室内に求めるものの「原型」
第Ⅱ部の5つの章を通して、古代の5つの文明が室内空間に何を求めたかを見てきた。
メソポタミア──壁で権力を語らせた。 エジプト──家具を永遠に仕える道具にした。 インダス──衛生インフラで室内の質を保証した。 中国──マニュアルとヒエラルキーで室内に秩序を与えた。 ギリシャ・ローマ──もてなしの空間を壁画・モザイク・床暖房で完成させた。
これらは、一見バラバラだ。でもよく見ると、ここに登場したテーマは、私たちが現代の室内に求めるものと驚くほど重なっている。
「きれいな壁がほしい」(メソポタミア→壁紙やアクセントウォール)。 「いい家具で暮らしたい」(エジプト→デザイナーズ家具)。 「水回りがしっかりしていてほしい」(インダス→システムバスや食洗機)。 「設計基準がしっかりしていてほしい」(中国→建築基準法やJIS規格)。 「客を招いたとき見栄えがする部屋がほしい」(ギリシャ・ローマ→おしゃれなリビング)。 「足元が暖かいほうがいい」(ローマ→床暖房)。
──古代文明が出した「答え」の一つひとつが、数千年後の私たちの暮らしにそのまま引き継がれている。
「美しさ」「衛生」「権威」「規格」「もてなし」──私たちが室内に求めるものの原型は、すべてこの時代に出揃っていた。
次の時代へ──壁が「動き始める」
第Ⅰ部で「室内」が誕生し、第Ⅱ部で「室内の基本要素」が出揃った。
では、次に何が起きるのか。
次の第Ⅲ部では、時代が中世から近世へ移り、舞台がヨーロッパ、イスラーム世界、東アジアへと広がる。
中世ヨーロッパでは、タペストリー──巨大な織物──が壁を覆い、城から城へ持ち運ばれた。「壁の装飾がポータブルになる」という、それまでなかった発想だ。
イスラーム世界では、偶像を描くことなく幾何学模様だけで壁面を埋め尽くし、光と水を室内に引き込む独自の美学が花開いた。
そして日本では、障子と屏風という「動く壁」が生まれた。固定された壁に絵を描くのではなく、壁そのものを動かして空間を変える。これは、のちの20世紀のモダニズムにも影響を与える画期的な発想だった。
壁は、もう固定されたものではなくなる。布として持ち運ばれ、幾何学として増殖し、紙として動き始める。
──室内の歴史は、いよいよ加速していく。