インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第16章|曲げ木と手仕事のあいだ

トーネットの椅子とモリスの反乱


19世紀後半、ヨーロッパのあらゆるカフェ、レストラン、ビアホールに、同じ椅子が置かれていた。

ブナ材を蒸気で曲げてつくった、軽くてシンプルな椅子。部品はたった6つ。組み立てに必要なのは10本のネジと2つのナット。分解して梱包すれば、1立方メートルの木箱に36脚が収まる。

この椅子の名前はNo.14。つくったのはミヒャエル・トーネット。1859年に発売されてから1930年までに、5000万脚以上が売れた。「世界で最も売れた椅子」だ。

同じ時代、ロンドンでは一人の男が正反対のことを叫んでいた。

「役に立つとわかっていないもの、美しいと信じていないものを、家に置いてはならない。」

ウィリアム・モリス。手仕事の美を取り戻せと訴え、機械による量産を否定し、中世の職人たちの精神に立ち返ろうとした男だ。

トーネットとモリス。この二人が19世紀に投げかけた問い──「量産か、手仕事か」──は、20世紀のデザイン革命のすべての出発点になる。


ミヒャエル・トーネットと蒸気の魔法

ミヒャエル・トーネットは1796年7月2日、ドイツのボッパルト・アム・ラインに、皮なめし職人の息子として生まれた。伝統的な家具職人として修業し、1819年に父の工房を引き継いだ。

1830年代初頭、トーネットは接着剤で煮た薄板を曲げて重ね合わせる実験を始めた。しかしこの技法ではプロイセンの特許を取れず、1841年にフランス、イギリス、ベルギーで特許を取得するにとどまった。

転機は思わぬところからやってきた。コブレンツの見本市でトーネットの「ループレッグ」の椅子に目を留めたオーストリアの宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが、ウィーンに招いたのだ。1842年7月16日、トーネットはオーストリア宮廷特許を取得する。「あらゆる種類の木材を、たとえ最も脆いものでも、化学的および機械的手段によって望みの形と曲線に曲げる」権利だ。

1853年11月1日、5人の息子とともに**ゲブリューダー・トーネット(トーネット兄弟社)**を設立。

決定的なブレイクスルーは1855年に訪れた。トーネットは、それまでの積層合板ではなく、無垢のブナ材を蒸気で直接曲げる技術を発見した。1856年7月10日、13年間のオーストリア特権を取得。

蒸気曲げ木の工程はこうだ。無垢のブナ材の棒(ブナはオークや白樺より裂けにくいことが実証済み)を、約100度の蒸気の圧力容器に数時間入れる。木の繊維を取り囲む樹脂が柔らかくなったところで、外側に金属のストリップを当てて裂けを防ぎながら、鋳鉄の型に沿って曲げる。約70度で20時間ほど乾燥させると、硬化した樹脂が木の繊維を新しい曲線のまま固定する。

最初の大規模工場は1857年、モラヴィア(現チェコ共和国)のコリチャニに開かれた。ブナの森林、安価な労働力、鉄道へのアクセスが揃った立地だ。1861年に設立されたビストリツェ・ポト・ホスティーネム工場は、世界最古の現存する曲げ木家具工場として今もTONブランドで操業している。1870年代半ばには約4000人を雇用し、1912年には年間180万脚を生産した。


No.14──6つの部品、10本のネジ、ひとつの革命

No.14が初めて市場に出たのは1859年

6つの蒸気曲げ木の部品──座面のフレーム、脚、背もたれ、ストレッチャー・リング(脚をつなぐ補強環)──から成る。後ろ脚と背もたれは1本の曲げ木から一体成形されている。これを10本のネジと2つのナットで組み立てる。接着剤は不要だ。

ここでひとつ、よくある誤解を正しておきたい。「36本のネジで組み立てる」という記述が広まっているが、これは間違いだ。36という数字は、分解した椅子を1立方メートルの木箱に詰められる脚数を指す。V&A博物館、デザイン・ミュージアム、MoMA、トーネット社の公式サイトのすべてが10本のネジと2つのナットと明記している。

現代の寸法は幅41.91センチ、奥行き48.77センチ、高さ91.95センチ。重さ約3キログラム。座面にはラフィア繊維や籐が編み込まれ、カフェでこぼれた飲み物がすぐに抜け落ちるようになっていた。当初の価格は3グルデン──卵3ダースか、上等なワイン1本と同じ値段だ。

この椅子の革命性は、デザインの美しさだけにあるのではない。輸送の革命だった。

椅子は分解された状態で出荷され、目的地の販売店や代理店で組み立てられた。ネジだけで接合するから、特殊な技術は要らない。木箱に36脚が平たく収まるから、輸送コストは従来の家具の何分の一にもなる。──IKEAのフラットパック方式の、100年以上前の先駆者だ。

トーネットの死(1871年)の時点で、アムステルダム、ベルリン、ブリュノ、ブリュッセル、ブダペスト、ジュネーブ、ハンブルク、ロンドン、パリ、ロッテルダムに販売拠点があり、のちにシカゴとニューヨークにも進出した。生産数は1857年の年間1万脚から、1875年に62万脚、1913年にピークの181万脚にまで伸びた。

ル・コルビュジエはこう賞賛した。「これより優れた、これより上品な設計で、これより精密に製作された実用的な物はかつて創られたことがない。」 マルセル・ブロイヤー、ミース・ファン・デル・ローエ、アルヴァ・アアルト、チャールズ&レイ・イームズ──20世紀の巨匠たちは、みなNo.14から影響を受けている。パブロ・ピカソのアトリエにも、アンリ・マティスの絵のなかにも、アルベルト・アインシュタインの部屋にも、No.14はあった。

現在もモデル214として生産が続いている。


ウィリアム・モリス──オックスフォードの美学青年

トーネットが蒸気と機械で「安くて美しい椅子」をつくっていたころ、ロンドンでは正反対の思想が燃え上がっていた。

ウィリアム・モリスは1834年3月24日、ロンドン東部のウォルサムストウに生まれた。父はサンダーソン社(手形割引業)のパートナーで、裕福な中産階級の家庭だった。

オックスフォード大学に神学を学ぶために入学したモリスは、そこで二つの決定的な出会いをする。ひとつはジョン・ラスキンの著作、とくに『ヴェネツィアの石』に収められた「ゴシック建築の本質について」。もうひとつはエドワード・バーン=ジョーンズ──生涯の友にして創作のパートナーとなる画家だ。

ラスキンの思想は明快だった。中世のゴシック建築に見られる手仕事の不完全さのなかにこそ、人間の魂が宿る。工場の機械がつくる完璧に均一な製品は、美しく見えても魂が死んでいる。──この思想が、モリスの人生を決定づけた。

建築家ジョージ・エドマンド・ストリートのもとで短期間修業し(ここでフィリップ・ウェッブに出会う)、その後画家に転じた。労働者階級出身のジェーン・バーデンと結婚。──ジェーンはラファエル前派の画家たちのモデルとなる女性だ。


レッドハウス──「反古典」のマニフェスト

1859年、モリスとフィリップ・ウェッブは、ケント州ベクスリーヒース(当時はアプトン村)にレッドハウスを共同設計した。1860年に完成。

この家は、建築の「反逆」だった。

当時のイギリスの住宅は白い漆喰仕上げが主流だったが、レッドハウスはその名の通り赤い煉瓦をむき出しにした。L字型の平面は庭を非対称に囲み、中世の建物が増築を重ねたような有機的な形態を持つ。急勾配の屋根、大きな煙突、クロスゲーブル(交差切妻)、尖頭アーチの窓枠、突き出し窓──すべてがゴシック・リヴァイヴァルの精神を体現していた。

室内はさらに徹底していた。玄関ホールの据え付けベンチには『ニーベルンゲンの歌』の場面が手描きされ、バーン=ジョーンズが「愛」と「運命」を描いたステンドグラスが窓を飾り、ウェッブがデザインしたゴシック風の家具が並んだ。梁と煉瓦のアーチはそのまま見せ、暖炉には「アルス・ロンガ、ヴィータ・ブレヴィス(人生は短く、芸術は永い)」の銘が刻まれた。

モリスー家は1860年から1865年までレッドハウスに暮らしたが、ロンドンへの通勤の辛さ、バーン=ジョーンズの幼い息子の死、増築計画の頓挫が重なり、1889年に2900ポンドで売却された。買い手のチャールズ・ホルムはこの家で1893年に美術雑誌『ザ・ステュディオ』を創刊。現在はナショナル・トラストが管理している。


「ザ・ファーム」──7人の芸術家が家具をつくった

レッドハウスの室内をつくる過程で、モリスはあることに気づいた。自分が望むような美しい日用品が、市場のどこにも売っていない。

ならば、自分たちでつくるしかない。

1861年4月、ロンドンのレッドライオン・スクエア6番地にモリス・マーシャル・フォークナー商会──通称「ザ・ファーム」──が創設された。7人の共同出資者は、ウィリアム・モリス、エドワード・バーン=ジョーンズ(画家)、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(ラファエル前派の画家)、フィリップ・ウェッブ(建築家)、フォード・マドックス・ブラウン(画家)、チャールズ・フォークナー(数学者)、ピーター・ポール・マーシャル(測量技師兼技術者)。

ジョン・ラスキンの思想を実践に移す試みだった。中世ゴシックの職人精神に立ち返り、装飾を再び「美術」の地位に引き上げる。ユーストンの身寄りのない少年たちの施設から徒弟を雇い入れた。

製品はステンドグラス(最初の成功──教会からの注文)、手描き家具、刺繍壁掛け、手彩色タイル、壁紙、織物と捺染テキスタイル、カーペットとラグ、タペストリー、そして総合的な室内装飾サービス。主要な注文にはサウス・ケンジントン博物館(のちのV&A)の食堂や、セント・ジェームズ宮殿の部屋が含まれている。

1875年、モリスは他の出資者を買い取り(軋轢を生んだ)、社名を**モリス商会(Morris & Co.)**に変更した。会社は1940年まで存続し、デザインは今日サンダーソン・アンド・サンズにライセンスされている。


「いちご泥棒」──壁紙に込めた手仕事の執念

モリスは50種以上の壁紙と5種の天井紙をデザインした。

最初の壁紙「トレリス」(1862年設計)はレッドハウスのバラの格子垣に着想を得たもので、鳥はフィリップ・ウェッブが描いた。「デイジー」は15世紀のフロワサール年代記から野草を写し取り、「ウィロー」(1885年)は日本的な感性を宿し、「ウィローバウズ」(1887年)はケルムスコット邸の柳に基づいている。「アカンサス」は30枚のブロックを要する大柄で、当初は商会でもっとも高価な壁紙だった。

なかでも最も有名なのが、「ストロベリー・シーフ(いちご泥棒)」(1883年、同年に特許庁に登録)だ。

オックスフォードシャーのケルムスコット邸の菜園で、ツグミがいちごを盗み食いする光景に着想を得ている。1883年5月、モリスは娘のメイに宛てた手紙にこう書いた。「先週はマートンにずいぶん通いましたよ。いちご泥棒の最初の捺染を心配しながら監督していたのです。今度こそうまくいくと思います。」

この壁紙には藍の抜染(インディゴ・ディスチャージ・プリンティング)というアジア起源の技法が使われている。布地をまず藍で深い青に染め、彫刻ブロックで選択的に漂白剤を塗布して青を抜き、そこに赤(アリザリン染料)と黄(ウェルド)を「押し込む」。「いちご泥棒」は、この藍の抜染技法で初めて赤と黄を青と白の下地に加えたデザインだ。

モリスは1875年に藍の抜染を初めて試みたが、1881年にマートン・アビーの工房に移ってからようやく技法を完全にマスターした。合成染料が広く出回っていた時代に、彼はあえてそれを拒否し、歴史的な天然染料の方法を研究・復元した。天然染料のほうが色調が豊かで微妙であり、日光や洗濯による退色に強かったからだ。

「いちご泥棒」はモリス商会で最も高価な捺染ファブリックだったにもかかわらず、「顧客のお気に入り」となり、今日でもモリスのデザインのなかで最も人気のある作品のひとつであり続けている。


社会主義者モリスの矛盾

モリスは室内装飾家であると同時に、熱烈な社会主義者でもあった。

1870年代から80年代にかけて政治活動にのめり込み、社会民主連盟に参加した後、1884年12月にエレノア・マルクス(カール・マルクスの娘)、アーネスト・ベルフォート・バックスとともに脱退して社会主義同盟を結成。機関紙『コモンウィール』を編集し、晩年の約20年間におよそ100回の公開講演を行った。「われわれはいかに暮らし、いかに暮らしうるか」「無益な労働と無益な苦役」「あるべき工場の姿」。

彼の思想を凝縮した名言がある。

「人民によって人民のためにつくられる芸術、つくる者にも使う者にも幸福をもたらす芸術。」

「役に立つとわかっていないもの、美しいと信じていないものを、家に置いてはならない。」

「つくる喜びのない仕事は、する価値がない。」

1890年に『コモンウィール』に連載を始めた小説**『ユートピアだより(News from Nowhere)』**は、私有財産も大都市も権力機構もない理想社会を描いた。人々が自然と労働のなかに喜びを見出す農村的なユートピア。エドワード・ベラミーの『顧みれば(Looking Backward)』(1888年)──国家的工業社会主義を描いた作品──への反駁として書かれた。モリスは1889年6月21日の『コモンウィール』でベラミーの著作を酷評している。

しかし、モリスの理想と現実のあいだには、埋めがたい溝があった。

「人民のための美」を掲げながら、モリスの製品は裕福なエリートにしか手が届かなかった。

中世の技法を用いて美しく素朴な手仕事の製品をつくる──その理想は崇高だったが、手仕事であるがゆえに高価で、結局は上流階級の邸宅を飾ることにしかならなかった。裕福な実業家サー・ロシアン・ベルの邸宅を改装中、落ち着かない様子で部屋を歩き回るモリスに「どうしたのか」と聞かれ、こう答えたという。

「いや、なんでもない。ただ、自分の人生が金持ちの豚のような贅沢に仕えることに費やされていると思うと。」

1880年代から90年代にかけて、モリスは資本主義と「豚のような上流階級」を激しく糾弾しながら、その上流階級の邸宅を高い費用で装飾し続けた。マルクスの『資本論』を1年で読み潰すほど熱読した彼は、その本を豪華な金色の装丁で再製本させた。──矛盾の完璧な体現だ。

伝記作家フィオナ・マッカーシーはこう書いている。「彼は自分でもよくわかっていた。完璧主義的なデザインへのこだわりと、普通の人々が買える値段でそれを実現することとが、どうしても両立しないことを。」


アーツ&クラフツ運動──モリスの遺産

モリスの思想は、一つの運動を生んだ。アーツ&クラフツ運動(おおむね1880年から1920年)だ。

1884年に美術労働者ギルドが設立され、1887年にはアーツ&クラフツ展覧会協会が発足した(初代会長はウォルター・クレイン)。

C・R・アシュビー(1863~1942年)は1888年、ロンドン東部ホワイトチャペルのトインビー・ホールで手工芸ギルドおよび学校を設立した。ラスキンの読書会から始まったこの組織は、1890年代に約50人の職人が家具、金属工芸、宝飾品を制作するまでに成長した。1902年、アシュビーはギルドの全員──男性、女性、子供合わせて150人──をロンドン東部からコッツウォルズのチッピング・カムデンに丸ごと移住させた。──手工芸ギルドの職人の末裔が営むハート金銀工房は、今もチッピング・カムデンで操業している。

アーネスト・ギムソン(1864~1919年)はモリスがレスターで講演した際に出会い、1893年にバーンズリー兄弟(アーネスト、1863~1926年、とシドニー、1865~1926年)とともにコッツウォルズに移り住んだ。ピンバリー・パーク、のちにサッパートンのデインウェイ・ハウスで高品質の革新的家具を制作した。アーネスト・バーンズリーの代表作ロッドマートン邸は、地元の職人だけで伝統的に建設・家具調度が行われ、1929年に完成した。

運動はヨーロッパ大陸にも波及した。1907年に設立された**ドイツ工作連盟(ドイッチャー・ヴェルクブント)**は、アーツ&クラフツの精神を受け継ぎつつも、工業生産への敵意はモリスほど強くなかった。W・R・レサビーが1896年に設立した中央美術工芸学校は「バウハウス以前のヨーロッパで最も進歩的な美術学校」と評された。

そして1919年に設立されるバウハウスは、アーツ&クラフツの核心的な目標──「職人と芸術家の分断を消す」「創造的な仕事を通じて社会的格差を克服する」──を共有しながら、モリスが拒絶した工業的製造を全面的に受け入れた。──この転換こそが、第Ⅴ部で語る20世紀デザイン革命の核心だ。

アメリカでは**グスタフ・スティックリー(1858~1942年)**がアーツ&クラフツ運動の中心人物となった。彼が創刊した雑誌『ザ・クラフツマン』の第1号はモリスに、第2号はラスキンに捧げられている。「クラフツマン様式」(ミッション様式)の家具を制作し、モリス・チェアのデザインを翻案して、温かさ、家族の団欒、新鮮な空気を重視する「理想の家」を提唱した。


二つの答え、ひとつの問い

トーネットとモリス。

この二人を並べると、19世紀のインテリアが抱えた根本的な問いが浮かび上がる。

「美しい日用品は、どうすればすべての人に届くのか。」

トーネットの答えは「機械で安くつくる」だった。蒸気曲げ木、6つの部品、10本のネジ。No.14は3グルデンで買える椅子だった。カフェの労働者にも、学校の子供にも、手が届いた。ル・コルビュジエが賞賛したのは、この椅子の「民主性」だ。

モリスの答えは「手仕事で美しくつくる」だった。藍の抜染に4週間、壁紙に68枚の版木。「いちご泥棒」はモリス商会で最も高価なファブリックだったが、機械印刷では決して出せない色の深みと繊細さを持っていた。

どちらが正しかったのか。──答えは、どちらも正しかった。そしてどちらも限界を抱えていた。

トーネットのNo.14は美しく安価だったが、「美しい日用品」を世界に届けたというよりは、「ひとつの椅子」を大量に届けた。室内のすべてをNo.14で揃えることはできない。

モリスの手仕事は崇高な美を実現したが、その美を「人民」に届けることは、ついにできなかった。社会主義者が、金持ちの邸宅ばかりを飾る。この矛盾は、モリス自身を苦しめ続けた。

この問い──「工業生産で美を実現できるのか」──に対する次の答えは、20世紀の幕開けとともに訪れる。


第Ⅳ部を振り返って

第Ⅳ部では、17世紀から19世紀末にかけて、室内空間に起きた4つの大きな転換を見てきた。

第13章──ヴェルサイユ宮殿。室内空間を「権力の劇場」に変えた。357枚の鏡、アンフィラードの部屋配置、起床と就寝の公開儀式。部屋の配列がそのまま政治的序列を体現した。

第14章──パリのギルド制度。世界最高水準の家具を生み出した分業と品質管理の仕組み。エスタンピーユの刻印が、250年後の今も職人の名を語る。しかしフランス革命がこの精緻なシステムを一夜にして消滅させた。

第15章──産業革命。電灯が夜を変え、セントラルヒーティングが暖炉を不要にし、壁紙印刷機が「おしゃれな壁」を大衆に届けた。室内は自由になったが、同時にヴィクトリア朝の「空白恐怖」という混沌も生んだ。

第16章──トーネットとモリス。「量産で安くつくる」と「手仕事で美しくつくる」。19世紀が投げかけたこの問いは、20世紀のデザイン革命のすべての出発点になった。

4つの章に共通するテーマは、**「室内の民主化」**だ。

ヴェルサイユの鏡の間は、世界でただ一人の王のためにつくられた。パリのギルドの家具は、一握りの特権階級のためにつくられた。しかし産業革命が照明と暖房と壁紙を量産し、トーネットが3グルデンの椅子をつくり、モリスが「人民のための美」を叫んだとき、「美しい室内」は少しずつ──まだ不完全ながら──すべての人のものになり始めた。

この「民主化」の物語が、第Ⅴ部で爆発的に展開される。

ヴァルター・グロピウスが1919年にバウハウスを設立したとき、彼はモリスの理想とトーネットの方法論を融合させようとした。「手仕事の美」と「工業生産」を対立させるのではなく、結婚させる。ル・コルビュジエが「壁は柱ではない」と宣言したとき、室内の間取りは暖炉からも壁からも解放された。ミース・ファン・デル・ローエが「装飾なき豊かさ」を大理石とガラスと鉄だけで実現したとき、モリスの「手仕事 vs 機械」という二項対立そのものが粉砕された。

壁が自由になった世紀──20世紀のインテリア革命の全貌が、次の第Ⅴ部で始まる。