インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第17章|壁はもう柱ではない

「自由な平面」がすべてを変えた


人類は何万年ものあいだ、壁に「支えてもらって」暮らしてきた。

石の壁、煉瓦の壁、土の壁。どんな素材であれ、壁は屋根を支え、風を防ぎ、敵を阻む構造体だった。メソポタミアの宮殿も、中世の城も、ヴェルサイユの鏡の間も、壁なしには成り立たなかった。

壁が消えたら、建物は崩れる。──これは、建築の最も基本的な常識だった。

20世紀の初め、ひとりのスイス生まれのフランス人建築家が、この常識を覆した。

ル・コルビュジエ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。彼がたどり着いた答えはシンプルだった。

壁に屋根を支えさせるのをやめればいい。


ドミノ・システム──すべてはここから始まった

その発想の原型は、第一次世界大戦のさなかに生まれた。

1914年から1915年にかけて、ジャンヌレ(当時まだ「ル・コルビュジエ」の名は使っていなかった)は、ベルギー・フランドル地方で破壊された住宅の再建案を構想していた。戦争で家を失った何万人もの難民に、すばやく、安く、大量に住宅を供給しなければならない。

彼が描いたスケッチは驚くほどシンプルだった。

3枚の水平なコンクリートの板。その板を6本の細い柱で支える。そして板と板をつなぐ階段。──以上。壁はない。

これが「ドミノ・システム(Maison Dom-ino)」だ。名前は「Domus(ラテン語で家)」と「Domino(ゲーム)」を掛けた造語で、平面図がドミノの牌に似ていること、そしてドミノ牌のように連結して長屋状に並べられることを示していた。

ここに壁は描かれていない。柱が端に寄せられているから、床と天井のあいだは完全に開かれている。壁を入れたければどこにでも入れられるし、入れなくてもいい。

この小さなスケッチが、室内空間の歴史を変えた。壁が建物を支える義務から解放された瞬間だった。

結局、ドミノ・システムは難民住宅として量産されることはなかった。しかしこの構造原理は、12年後に「近代建築の五原則」として結実する。後にこのスケッチは「20世紀建築で最も認知され、最も根本的なプロジェクト」と評された。


五原則──室内を変えた5つのルール

1927年7月、シュトゥットガルトのヴァイセンホーフ・ジードルング。ドイツ工作連盟の展覧会「住居(Die Wohnung)」の開幕にあわせて、ル・コルビュジエは従弟のピエール・ジャンヌレと共同で、1枚のパンフレットを配った。

そこに書かれていたのが「近代建築の五原則(Cinq points de l'architecture moderne)」だ。

ひとつずつ見ていこう。


第1の原則:ピロティ。

鉄筋コンクリートの細い柱が建物を支えれば、1階の壁はいらなくなる。建物は地面から「浮く」。地上階は駐車場にも庭にもなる。

これはインテリアの話だけではない。「建物と地面の関係」を根本的に変えた。家は地面に「張りつく」ものから、地面の上に「浮かぶ」ものになった。


第2の原則:屋上庭園。

平らなコンクリートの屋根を、テラスや庭園として使う。建物が地面に占めた面積分の緑を、屋上に取り戻す。断熱効果もある。

三角屋根の「家らしい家」から、平屋根の「白い箱」へ。この外観の変化は内部にも影響した。屋根裏部屋が消え、代わりに屋上が「もうひとつの居住空間」になった。


第3の原則:自由な平面(プラン・リブル)。

これが五原則の核心であり、室内空間にとって最大のインパクトを持つ原則だ。

柱が建物を支えるなら、壁は構造的な役割を負わなくていい。壁は「仕切り」でしかなくなる。つまり、壁は好きな場所に、好きな形で置ける

それまでの室内は「壁の箱」だった。四方を壁で囲まれ、壁に穴を開けて窓をつくり、壁に沿って家具を置く。部屋の形は壁が決めていた。

自由な平面はこの前提を覆した。壁を取り払えば、6メートル×14メートルの居間だってつくれる。実際にサヴォア邸では、まさにそのサイズの大空間が実現した。


第4の原則:水平連続窓。

壁が構造体でなくなれば、外壁に好きなだけ窓を開けられる。水平方向に帯のように連続する窓──それが「水平連続窓(フネートル・アン・ロンゲール)」だ。

ル・コルビュジエは興奮気味にこう書いた。「住宅で10メートル、宮殿で200メートルの窓も可能だ」。

この窓がもたらしたのは「光の民主化」だった。それまでの窓は壁にあけた縦長の穴で、光は窓の近くだけに集中し、部屋の奥は薄暗かった。水平連続窓は部屋の壁面いっぱいに光を行きわたらせ、「暗い隅」を消し去った。


第5の原則:自由なファサード。

外壁が構造から解放されたので、建物の「顔」を自由にデザインできる。窓の位置も大きさも、もう構造に縛られない。

5つの原則はすべて連動している。ピロティが建物を浮かせ、柱が壁を解放し、壁が自由になったから平面が自由になり、外壁が自由になったから窓が連続し、屋根が平らになったから屋上が使える。ドミノ・システムという1枚のスケッチから、室内空間のすべてが変わった。


「住むための機械」──誤解されつづけた名言

ル・コルビュジエの言葉のなかで、最も有名で、最も誤解されてきたのがこれだろう。

「住宅は住むための機械である(Une maison est une machine-à-habiter)。」

1923年12月、パリで出版された『建築をめざして(Vers une Architecture)』の第1章に登場する。208ページ、190点の白黒図版を収めたこの本は、雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』に掲載された12本のエッセイに新章「建築か革命か」を加えて編まれた。後に「20世紀に出版された最も重要な建築書」と称されることになる。

「機械」という言葉だけを切り取ると、冷たく無機質な空間を想像してしまう。しかしル・コルビュジエ自身の説明を読むと、印象はまるで違う。

「住宅は住むための機械である。浴室、太陽、温水、冷水、自在な暖房、食品の保存、衛生、良いプロポーションという意味での美。」

肘掛け椅子は座るための機械である。

彼が言いたかったのは「家を工場のようにしろ」ではない。自動車や飛行機や客船が、乗る人の快適さのために精密に設計されているように、住宅もそれと同じ精度で設計されるべきだ──ということだ。浴室に清潔な水が出ること、部屋に太陽光が入ること、食品が適切に保存できること。それらを「当然あるべき機能」として設計に組み込む。

ル・コルビュジエにとって「機械」とは、「冷たいもの」ではなく「精密なもの」の比喩だった。

この本は1929年にドイツ語、英語、日本語に翻訳され、グロピウス、フランク・ロイド・ライト、フィリップ・ジョンソンらに決定的な影響を与えた。


サヴォア邸を歩く──「建築的散策路」の体験

五原則のすべてが実装された記念碑的な建物がある。パリ郊外ポワシーに建つ**サヴォア邸(Villa Savoye)**だ。

1928年から1931年にかけて建設された。施主はピエールとウジェニー・サヴォア夫妻。パリの保険会社経営者夫妻が週末を過ごすための別邸だった。

まず数字を見てみよう。長さ約21.5メートル、幅約19メートル。構造グリッドは4.75メートル間隔(もともと5メートルの計画がコスト削減で縮められた)。延床面積は約480平方メートル。──決して巨大ではない。

当初の予算は約50万フラン。しかし最終的な建設費は約90万フランにまで膨らんだ。予算の倍近い超過は、この時代のモダニズム建築につきまとう問題だった。

この建物の最大の発明は、空間の「体験」にある。

ル・コルビュジエはこれを「建築的散策路(プロムナード・アルシテクテュラル)」と呼んだ。1929年の『全作品集』第1巻で初めて使われた概念だ。

車でアプローチすると、まず地上階のピロティが目に入る。建物は地面から浮いている。1階のカーブは1927年型シトロエン自動車の回転半径に合わせて設計されている。車を停め、ガラス張りの曲面エントランスを通過すると、目の前に2つの動線が現れる。螺旋階段スロープだ。

階段は素早い移動のためにある。しかしル・コルビュジエが本当に体験してほしかったのはスロープだ。対角線上に緩やかに上昇するスロープは、歩くにつれて視界がゆっくりと変化していく。

階段は「断絶」する──ある階から別の階へ、瞬間的に移動する。しかしスロープは「映画的」だ。フレームが連続的に変わりながら、時間の流れとともに空間が展開される。ル・コルビュジエはこれを「時間を通じた第四の次元」と表現した。

2階に上がると、6メートル×14メートルの居間が広がる。自由な平面がつくりだした大空間だ。暖炉は壁に埋め込まれるのではなく、自立した彫刻的なオブジェとして部屋のなかに置かれている。居間から引き戸を開けると、建物面積の約3分の1を占める吊り庭園が続く。室内と屋外の境界が溶けていく。

さらにスロープを上ると、最上階のソラリウム(70平方メートルの日光浴場)に至る。曲面の防風壁に囲まれたこの場所から、遠景がフレーム状の開口部で切り取られている。散策路の終点だ。

ル・コルビュジエはサヴォア邸について「常に変化し、予期せぬ、時に驚くべき眺望を提供する建築的スペクタクル」と記した。

この建物は「住む場所」であると同時に「歩く体験」だった。


壁が消えたあとの室内──家具が空間をつくる

自由な平面がもたらした最も根本的な変化は、家具の役割が変わったことだ。

それまで家具は「壁に沿って並べるもの」だった。壁が部屋の形を決め、家具はその壁に従った。しかし壁が自由に動かせるようになると──あるいは壁がなくなると──家具そのものが空間を区切る役割を担い始めた。

ソファの配置が「リビングエリア」を定義し、ダイニングテーブルが「食事の場所」を定義する。壁ではなく家具が、空間のゾーンを生み出す。──現代のオープンプラン・リビングの原理は、ここに端を発している。

この新しい空間にふさわしい家具をつくるため、ル・コルビュジエは2人の協力者と手を組んだ。従弟のピエール・ジャンヌレ、そしてシャルロット・ペリアンだ。

ペリアンは1927年、24歳でル・コルビュジエのアトリエの門を叩いた。「ここでは刺繍のクッションは扱っていない」と冷たくあしらわれたが、彼女はサロン・ドートンヌに出品した鋼管とアルミニウムのバー・カウンターを見せて認められた。以降10年にわたり、彼女はル・コルビュジエの家具デザインの中核を担うことになる。

3人が共同で生み出した家具は、自由な平面のための家具だった。

LC2 プチ・コンフォール(1928年)。鋼管フレームにクッションを載せただけのアームチェアは、壁に寄せる必要がない。部屋のどこにでも置ける。幾何学的な純粋さが、自由な平面の思想と響き合う。

LC4 シェーズ・ロング(1928年)。「リラックスする機械」と呼ばれたリクライニングチェアは、座る角度を無段階で調整できた。椅子が「固定された座り方」を要求するのではなく、身体が「好きな姿勢」を選ぶ。自由な平面の思想が、家具のスケールにまで浸透している。

ヴァイセンホーフの住宅では、折りたたみベッドを隠す造り付け家具が建築要素として壁に統合された。壁なのか家具なのか区別がつかない──それこそが、自由な平面の室内だった。


色彩もまた「自由」になった

白い箱。モダニズム建築のイメージは、どうしても「真っ白な壁」に結びつく。

しかしル・コルビュジエ自身は、室内に色を積極的に使った。

ヴァイセンホーフの住宅の外壁は白・青・オレンジ・緑に塗り分けられていた。サヴォア邸の内部にもピンクや水色の壁がある。

彼は1931年と1959年の二度にわたり、「建築的多色性(Architectural Polychromy)」のカラーキーボードを開発した。壁に適用する色彩を体系化したもので、色の組み合わせが空間にどんな効果をもたらすかを理論化した。

「白い壁のモダニズム」というイメージは、モノクロ写真の時代にモダニズム建築が広まったことによる一種の誤解でもある。ル・コルビュジエの室内は、実際にはずっとカラフルだった。


五原則の「遺産」──私たちの部屋のなかに

ル・コルビュジエの五原則は、建築の教科書に載る「歴史的理論」にとどまらない。私たちが今この瞬間に暮らしている部屋のなかに、その遺産は生きている。

マンションのリビング・ダイニングが一続きの空間になっているのは、壁が構造体である必要がなくなったからだ。バルコニーに面して横長の窓が並んでいるのは、水平連続窓の発想だ。ソファとダイニングテーブルの配置で「くつろぐ場所」と「食べる場所」を分けているのは、壁ではなく家具が空間を定義するという原理そのものだ。

数千年にわたって「壁の箱」だった室内空間を、ル・コルビュジエは「自由な平面」に変えた。

しかし、この革命にはもうひとつの顔がある。

壁を自由にしたのはル・コルビュジエだけではなかった。同じ時代に、壁そのものを「作品」に変えた建築家がいた。装飾を一切排しながら、素材の選択と接合だけで、息をのむほど豊かな空間をつくった人物。

ミース・ファン・デル・ローエ。

次の章では、彼が1929年のバルセロナ万博で建てた──そしてわずか半年で解体された──たったひとつの建物の話をする。