第13章|357枚の鏡が映す絶対王政
ヴェルサイユ宮殿の室内劇場
ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間(ガルリ・デ・グラス)」は、長さ73メートル、幅10.5メートル、天井高12.3メートル。
建築家ジュール・アルドゥアン=マンサールが1678年から1684年にかけて建造した。もともとこの場所には、前任のル・ヴォーが設計した屋外テラスがあった。国王と王妃の居室を結ぶこのテラスは、冬のパリの寒さに耐えられないという実用的な理由で室内化されることになる。
こうして生まれた73メートルの廊下は、しかし「通路」をはるかに超えた存在になった。
17のアーチ型窓が庭園に面して並び、その反対側の壁に17のアーチ型鏡パネルが向かい合う。1枚のパネルは21枚の鏡片で構成され、鏡片は鉛のカーム(枠組み)と真鍮のカボション(装飾金具)で接合されている。鏡の総数、357枚。
天井にはシャルル・ル・ブランが1681年から1684年にかけて描いた30の構図。中央のパネルに描かれているのは「王みずから統治する(Le roi gouverne par lui-même)」。──ニイメーヘン条約に至るルイ14世の親政最初の18年間の栄光が、頭上いっぱいに広がっている。
2004年から2007年の修復で交換が必要だった鏡はわずか48枚。オリジナルの鏡の約60パーセントが、300年以上の時を越えて今なお残っている。
鏡は「産業スパイ」がつくった
357枚の鏡がこれほど特別だったのは、技術的な理由がある。
17世紀、高品質の大型鏡をつくれるのは世界でヴェネツィアだけだった。1291年以来、ヴェネツィア共和国はすべてのガラス職人をムラーノ島に集め、1295年には職人が国外に出ることを死罪で禁じた。鏡の製法は、国家の最重要機密だった。
ルイ14世の財務総監コルベールは、この独占を力ずくで破りにかかった。
1665年10月、コルベールは王立鏡製造所(マニュファクチュール・ロワイヤル・ド・グラス・ド・ミロワール)を設立する。そして1665年から1667年にかけて3度にわたり、ヴェネツィアから鏡職人(スペッキエーリ)を高額の報酬で引き抜いた。記録には、その技術を「金に匹敵する値段で」買い取ったとある。
ヴェネツィア共和国の報復は容赦なかった。大使ジュスティニアーニが反撃を指揮し、1667年1月、熟練のガラス職人アントニオ・デッラ・リヴェッタが不審な死を遂げる。毒殺の疑いが濃厚だった。恐怖に駆られた残りの職人たちはヴェネツィアに逃げ帰り、赦しを乞うた。
しかしフランスの鏡づくりは、ここから国産の技術で実を結ぶ。シェルブール近郊トゥールラヴィルのガラス職人リシャール・リュカ・ド・ネウーが、ヴェネツィアに匹敵する品質の鏡を独自に生産することに成功したのだ。1692年に生産拠点をピカルディのサン=ゴバンに移したこの工場は、今日なお76カ国で17万人以上の従業員を擁する多国籍企業として存続している。
鏡の間とは、こういう空間だ。ただ美しいだけではない。「わが国にはヴェネツィアを凌ぐ技術がある」── 一枚一枚の鏡が、フランスの国力を無言で誇示していた。
部屋の並びが「身分」を決めた
鏡の間だけがヴェルサイユのインテリアではない。むしろ、この宮殿の本質は**部屋の「並べ方」**にある。
アンフィラード(enfilade)──フランス語の「糸を通す(enfiler)」に由来する言葉で、部屋を一直線に連ねて、扉を開ければ奥までの見通しが一気に通る配置のことだ。
国王の大居室(グラン・ザパルトマン・デュ・ロワ)は、もともと7つの部屋が太陽系にちなんで配置されていた。ディアナの間、マルスの間、メルキュールの間、アポロンの間(当初の国王寝室、のちに謁見室)、ジュピターの間、サトゥルヌスの間、ヴィーナスの間。南翼の王妃の居室は、これを正確に鏡像として反復する。
このアンフィラードを歩くことは、社会的な階段を登ることと同義だった。
最初の部屋は公的空間──誰でも入れる。しかし奥に進むほど、より高い身分が求められる。寝室と私的書斎にたどり着けるのは、最も内側の特権圏に属する者だけだ。社会学者ノルベルト・エリアスが指摘したように、宮廷儀礼のひとつひとつの行為には「正確に段階づけられた威信の価値」があった。
来客は自分の身分に応じたところまでしか案内されない。どの部屋まで入れたか──それがそのまま、宮廷における自分の「格」を意味した。
部屋のインテリアが政治的コントロールの装置になった。これは人類の室内空間史のなかでも、きわめて特異な事例だ。
起きることも寝ることも「公演」だった
ヴェルサイユの室内を理解するうえで避けて通れないのが、**レヴェ(起床の儀)とクシェ(就寝の儀)**だ。
毎朝8時、首席侍従のアレクサンドル・ボンタンが「陛下、お目覚めの時刻でございます」と声をかける。侍従が聖水を運び入れ、首席侍医と首席外科医が健康診断を行う。
ここからが「パフォーマンス」の始まりだ。
まずプティ・レヴェ(小起床の儀)。午前8時半ごろ、「グランド・アントレ」の特権を持つ限られた貴族だけが入室し、王がベッドから起き上がるのを見守る。次にグラン・レヴェ(大起床の儀)。枢機卿、大司教、大使、公爵、地方総督、元帥たちが順に入室する。王は寝台の上でも短いカツラをかぶっていた。回想録作家サン=シモンは「我々は隔日で王が自ら髭を剃るのを目にした」と記録している。
夜11時半、クシェはこの手順をまったく逆に再現した。公衆の面前で寝巻きに着替え、寝台に入る。
──なぜ、こんなことをしたのか。
答えは単純だ。貴族たちを宮殿に縛りつけるためだ。
王が誰かの不在に気づいたとき、その人物への評価は「この者にはまったく会わぬ(On ne le voit jamais)」の一言で決まった。王に「会わない」人物は寵愛を失い、利権を失い、出世の道を断たれる。貴族たちは自分の領地を離れ、ヴェルサイユに留まり続けるしかなかった。
こうしてルイ14世は、室内空間の配置と儀礼を一体化させることで、フランス全土の貴族階級をコントロールした。部屋のインテリアは「飾り」ではない。統治の道具だった。
2万本のロウソクが照らす一夜
ヴェルサイユの照明は、現代の博物館で見るそれとはまったく別物だった。
じつは、現在の鏡の間にぶら下がっているシャンデリアは20世紀につくられたレプリカだ。ルイ14世の時代、シャンデリアは常設ではなかった。特別な祝典のときだけ臨時に吊るされ、終わればすぐに撤去された。管理を担ったのは宮廷の祝祭部門「ムニュ・プレジール」だ。
大きな催しでは、鏡の間に2万本のロウソクが灯された。1739年の舞踏会では2万4000本、1751年の王子誕生の祝賀では8000本。
ロウソクにも格差があった。上質な白ロウソクは食卓と私室に、安価で早く燃える黄色いロウソクはそれ以外の場所に使われた。侍従たちはロウソクを357枚の鏡の前に戦略的に配置し、光を何倍にも増幅させた。
そしてこの消えかけのロウソクの残りかす──これが上級侍従にとっての「役得」だった。彼らは蝋の残りを集めて売り、給料の足しにした。宮廷ロウソクの御用達だったトリュドン社は、17世紀から今日まで続くフランスの老舗キャンドルブランドだ。
現在、ヴェルサイユでは20世紀に設置されたレプリカのシャンデリアの一部を撤去し、ロウソクの揺らめく光のなかでこそ映える「影と反射の詩情」を取り戻す作業が進められている。鏡の間は、一定の明るさで照らされるための空間ではなかった。揺れる炎のなかで、鏡が光と影を無限に交錯させる──そういう空間だった。
「公」と「私」のあいだ──宮殿のなかの2つの世界
ヴェルサイユの内部には、まったく性格の異なる2つの空間が同居していた。
**グラン・ザパルトマン(大居室)**は、公的儀礼のための空間だ。週に3回開かれる夜の集い「ソワレ・ド・ラパルトマン」では、各部屋に特定の用途が割り当てられた。ヴィーナスの間がビュッフェ、ディアナの間がビリヤード室、マルスの間がダンスホール、メルキュールの間がカードゲーム場、アポロンの間がコンサート会場。王妃の寝室では出産が公開で行われた。──すべてが「見せる」ための空間だ。
一方、**プティ・ザパルトマン(小居室)**は宮殿最古の区画、鹿の中庭のまわりに点在する小部屋群だった。ルイ14世のもとでは美術品や書籍のコレクション室として使われ、ルイ15世は1738年以降、ここを大幅に改装して、暖房の効きやすい南向きの小さな私的寝室をつくった。ルイ16世は1774年に有名な書斎を増設した。王妃の小居室には秘密の通路があり、マリー・アントワネットは1789年10月5日から6日にかけてのヴェルサイユ行進の際、この通路を使って脱出した。
大居室が「見せる空間」だとすれば、小居室は「見られないための空間」だった。
そしてこの「公」と「私」の二重構造のなかで、国王の寝室だけが特異な位置を占めていた。
寝室は本来、最も私的な場所のはずだ。しかしヴェルサイユの国王寝室は、ベッドの手前に金色の柵(バリュストラード)が設けられ、その内側に入るには明確な王の許可が必要だった。しかも、宮廷の礼法ではベッドが空のときでさえ、その前を通る者は帽子を脱いで一礼しなければならなかった。
空っぽのベッドに頭を下げる。──この作法は、室内空間が「そこにいる人物」ではなく「象徴としての場」に権威を付与していたことを示している。第Ⅱ部のメソポタミアの王座の間(第4章)以来の、「空間そのものが権力を語る」思想の極致だ。
マリー・アントワネットの「脱出」──プチ・トリアノン
ヴェルサイユの室内劇場から逃れようとした人物がいた。マリー・アントワネットだ。
1774年5月から6月、即位したばかりの20歳のルイ16世は、19歳の王妃にプチ・トリアノンを贈った。王妃が自ら城館を「所有」するのは、フランス史上初めてのことだった。
プチ・トリアノンはもともとルイ15世がポンパドゥール夫人のために建築家アンジュ=ジャック・ガブリエルに設計させた小城館で、1762年から1768年に完成した。ロココからネオクラシックへの過渡期を体現する建築だ。
王妃はこの城館を自分好みに改装した。窓にはプライバシーを守るためのスライド式シャッター。1780年にはリシャール・ミクの設計で書斎が増設された。寝室には格子と籠細工の模様を描いた家具が置かれ、椅子には百合の花やスズラン、麦の穂をモチーフにした彫刻が施された。──大居室の絢爛さとはまるで異なる、親密で軽やかな室内だ。
さらに1783年から1786年にかけて、建築家ミクとランドスケープデザイナーのユベール・ロベールの手で、人工の湖を囲む12棟のコテージ──**「王妃の村里(アモー・ド・ラ・レーヌ)」**が建設された。
根強い俗説では「マリー・アントワネットは農婦ごっこをしていた」と言われるが、実態は違う。これは農場長ヴァリ・ビュサールのもとで牧夫や庭師が働く本物の農場で、生産物は王室の食卓に供された。
プチ・トリアノンとアモーは、ヴェルサイユの「見せる空間」に対する「見られない空間」の極致だった。鏡の間が「国家の劇場」だったとすれば、プチ・トリアノンは「劇場からの逃避」だった。しかし皮肉なことに、この「逃避」こそが民衆の怒りを煽る材料になった。
ヴェルサイユは「コピー」された
ルイ14世が築いた「室内空間=権力の劇場」というモデルは、ヨーロッパ中の君主たちによって模倣された。
最も忠実なコピーは、バイエルンのヘレンキームゼー宮殿だ。1873年、ルートヴィヒ2世はキーム湖の島を購入し、ゲオルク・フォン・ドルマンにヴェルサイユの「再現」を命じた。13段階の設計を経て1878年5月21日に着工された宮殿には、17のアーチと33の吊り下げシャンデリア、44の独立式燭台を備えた鏡の間がある。その長さは98メートル──本家より25メートルも長い。
しかしルートヴィヒ2世がここに滞在したのは1885年夏のわずか10日ほど。翌1886年6月に謎の死を遂げ、70室のうち50室は未完成のまま残された。本家と異なり、トイレ、水道、セントラルヒーティング、温水浴槽が完備されていた。──技術的にはヴェルサイユを超えていたが、そこに宮廷が機能することはなかった。
ロシアのピョートル大帝が建設したペテルゴフ宮殿は「ロシアのヴェルサイユ」と呼ばれ、ウィーンのシェーンブルン宮殿はマリア・テレジアのもとでバロック様式の庭園と1441の部屋を備え(ヴェルサイユの部屋数は2300)、イタリアのカゼルタ宮殿はブルボン家のカルロスがヴァンヴィテッリに設計させた。イングランドではハンプトン・コート宮殿がアンフィラードの大居室を備え、ブレナム宮殿が左右対称の計画を採用した。
これらの「コピー」が示しているのは、ヴェルサイユの室内デザインが単なる美的な選択ではなかったということだ。アンフィラード、鏡、天井画、儀式的な部屋の序列──それらは「絶対王政はこのように見えるべきだ」という統治のフォーマットだった。室内空間が、国際的な政治言語になった。
鏡の間が教えてくれること
ヴェルサイユの物語は、室内空間の歴史において何を意味するのか。
第一に、**「室内は権力の道具になりうる」**ということを、これ以上なく明確に示した事例だということだ。
メソポタミアの宮殿レリーフ(第4章)は壁で王の威光を語った。しかしヴェルサイユはさらに踏み込んで、部屋の配列・儀式の手順・光の演出・家具の配置のすべてを統合し、「空間を歩く体験」そのものを政治的コントロールに変えた。
第二に、**「テクノロジーは室内の意味を変える」**ということだ。
鏡の間が成立するためには、ヴェネツィアの独占を打ち破る国産鏡の技術が必要だった。鏡は「美しいから」飾られたのではない。「フランスの技術力の勝利」を示すために飾られたのだ。技術と美とナショナリズムが、357枚の鏡のなかで結びついていた。
第三に、「公」と「私」の境界は、時代と権力によって動かされるということだ。
現代の私たちは、寝室を「最も私的な空間」だと思っている。しかし�イ14世の寝室は「最も公的な舞台」だった。マリー・アントワネットがプチ・トリアノンに逃げ込んだのは、その構造に息が詰まったからだ。──「プライバシーとは何か」という問いの答えは、時代によって根本的に異なる。
さて、この壮麗な室内劇場を支えたのは誰だったのか。
次の章では、鏡の間の裏側──パリの工房で木を削り、金属を鋳造し、漆を塗っていた「職人たちの世界」を訪ねる。彼らなくして、ヴェルサイユは存在しなかった。