デザイナーズ家具・インテリア カタログ Stories of Design Interior Catalog

インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第2幕|デザインを教える学校 ── バウハウスの実験

わずか14年の学校が、その後100年のデザインに残したもの


1919年4月。ドイツ中部の小さな街ヴァイマールで、ひとつの学校が生まれた。

校長の名はヴァルター・グロピウス。35歳。第一次世界大戦の西部戦線から帰還して間もない建築家だった。学校の名前は**バウハウス**──ドイツ語で「建築の家(Bauhaus)」。中世の石工ギルド「バウヒュッテ(Bauhütte)」にちなんだ造語だ。

グロピウスが最初に発表した宣言文には、こう書かれていた。

「すべての造形活動の最終目標は、建築である。」

画家も彫刻家も織物職人も、ひとつの建物のためにともに働く。芸術と工芸の境界を壊す。機械を敵視するのではなく、機械と手を結ぶ。──それがバウハウスの思想だった。

この学校は、わずか14年間しか存在しなかった。1933年、ナチスの圧力により閉鎖される。しかしこの14年間は、その後100年のデザインに大きな影響を与え続けている。


3つの物語、3つの章

第2幕では、バウハウスという学校が室内空間に何をもたらしたのかを、3つの視点から追いかける。

第20章は「学校の物語」だ。 バウハウスはヴァイマール、デッサウ、ベルリンと、3つの都市を転々とした。政治に翻弄され、資金難に苦しみ、内部対立にも揺れた。それでもこの学校は、カンディンスキー、モホイ=ナジ、イッテンといった教師陣を擁し、近代的な「デザイン教育」の原型をつくった。

第21章は「校舎の物語」だ。 1926年に完成したデッサウの新校舎では、照明器具から家具、壁の色彩まで、校舎の室内の多くを学校内の工房が手がけた。壁の色彩計画を壁画工房が担い、金属工房がランプをつくり、家具工房が椅子をつくった。校舎そのものが、バウハウスの理念を示す「統合デザインのショールーム」だった。

第22章は「一脚の椅子の物語」だ。 23歳の家具工房主任マルセル・ブロイヤーが、自転車のハンドルバーにヒントを得て、鋼管を曲げて椅子をつくった。ワシリーチェア。最初期の鋼管家具のひとつ。この一脚が、20世紀の室内に「工業素材」を持ち込む決定的な引き金になった。


前の時代からの跳躍

第1幕で見たモダニズムの三巨匠──ル・コルビュジエ、ミース、ロース──は、それぞれ独力で空間の考え方を塗り替えた。天才的な個人が、天才的な建築をつくった。

バウハウスは違う。

ここでは**「教育」が変化の舞台**になった。ひとりの天才ではなく、教師と学生の共同体が、理論と実践を同時に回しながら、新しいデザインを生み出していった。カンディンスキーが色彩論を教え、モホイ=ナジが素材実験を指導し、ブロイヤーが工房で試作を重ねる。理論が即座に製品になり、製品が理論にフィードバックされる──この循環が、バウハウスを「デザインの実験室」にした。

そして、第Ⅳ部で見たウィリアム・モリスの問題に、ここで新しい答えが示される。モリスは「手仕事の美」を唱えたが、手仕事では高くなりすぎて庶民に届かなかった。バウハウスは工業生産を拒否しなかった。むしろ積極的に工場と提携し、「美しくて、安くて、大量に作れるもの」を目指した。芸術と工業の和解。──それがバウハウスの最大の賭けだった。


年表:バウハウスの14年とその後

| 年 | できごと | |---|---| | 1919 | ヴァイマールで開校。グロピウスが校長に就き、宣言文を発表する | | 1922 | カンディンスキーが着任する | | 1923 | 大規模な展覧会を開き、実験住宅「ハウス・アム・ホルン」を公開。イッテンが去り、モホイ=ナジが着任する | | 1925 | ヴァイマールを離れ、デッサウへ移転する | | 1926 | デッサウの新校舎が完成する | | 1928 | グロピウスが退任し、ハンネス・マイヤーが校長になる | | 1930 | マイヤーが解任され、ミース・ファン・デル・ローエが校長になる | | 1932 | デッサウ校が閉鎖され、ベルリンの旧工場に移る | | 1933 | ナチス政権の圧力のもと、教師会が解散を決める | | 1937〜38 | グロピウスがハーバード大学へ、モホイ=ナジがシカゴで「ニュー・バウハウス」を開校、ミースがシカゴの工科大学へ |


3人の校長、3つの方向

14年のあいだに校長は3人入れ替わり、そのたびに学校の重心が動いた。

**ヴァルター・グロピウス(1919〜1928年)**は、芸術と手工芸を建築のもとに統合するという理念から出発し、デッサウ移転のころには工業生産との協力へと舵を切った。

**ハンネス・マイヤー(1928〜1930年)**は、「贅沢品ではなく民衆の必需品を」という方向を打ち出し、社会の必要に応える設計を重んじた。

**ミース・ファン・デル・ローエ(1930〜1933年)**は、学校を建築教育へと引き寄せ、政治的な対立から距離を置こうとした。

同じ「バウハウス」の名のもとでも、時期によって目指したものは同じではない。バウハウスを一つの様式として語るときには、この変化を念頭に置いておく必要がある。


工房と室内のレイヤー

バウハウスの教育は、半年ほどの予備課程で素材・色彩・形態の基礎を学んだあと、学生がそれぞれの工房に進む仕組みだった。ヴァイマール時代には、各工房を造形の教師(フォルムマイスター)と技術の親方(ヴェルクマイスター)が二人で指導した。

工房の分担は、そのまま室内のレイヤーに対応している。

| 工房 | 担った室内のレイヤー | 主な成果 | |---|---|---| | 壁画工房 | 壁・天井の色 | デッサウ校舎の色彩計画 | | 金属工房 | 照明 | 量産を前提にしたランプ | | 家具工房(指物工房) | 家具 | 鋼管の椅子、組み合わせ式の収納 | | 織物工房 | 床の敷物、カーテン、張り地 | 椅子の張り地に使う丈夫な織物 | | 印刷・広告工房 | 象徴(サイン、書体) | 大文字を使わない書体の試み |

室内を構成する要素を、別々の専門家に任せるのではなく、ひとつの学校のなかで同時に設計する。──この体制そのものが、バウハウスが室内の歴史に残したものだった。