第28章|日本のモダニズムとインテリア
畳の上の近代化
1933年5月4日、京都。
ドイツから逃れてきたひとりの建築家が、桂離宮の門をくぐった。
ブルーノ・タウト。バウハウスと同時代のドイツ表現主義建築の旗手。ナチスから「ボルシェヴィキ」と告発され、ドイツに留まることができなくなり、前日に敦賀港に到着したばかりだった。日本到着の翌日──文字通り翌日に──日本国際建築会のメンバーに連れられて桂離宮を訪れた。当時、桂離宮は一般公開されておらず、国外ではほとんど知られていなかった。
タウトは感動のあまり、こう書き残した。
「泣きたくなるほど美しい。」
さらにこう記している。「桂離宮の発見者であることを誇りに思う。」「その趣味は洗練の極みに達しており、その表現は極めて控えめだ。」
障子について、タウトはこう述べた。「初めて訪れる者の目にもっとも驚異的なのは、紙を張った窓障子を閉めたときの部屋の静寂であり、障子を開けたとき、庭園の『絵』が家の一部であるかのようにいっぺんに飛び込んでくる圧倒的な効果である。」
タウトは日光東照宮と桂離宮を対比して、「日本の建築芸術は桂より高くは上がれず、日光より低くは下がれない」と断じた。装飾を極限まで排した桂離宮の簡素さのなかに、タウトはバウハウスやモダニズムが追い求めていたものの原型を見た。
この「発見」は、西洋のモダニストたちに衝撃を与えた。1954年、ヴァルター・グロピウスはル・コルビュジエにこう書き送っている。「われわれが闘ってきたすべてのことの平行線が、日本の古い文化のなかにある。」
障子が西洋に教えたこと
タウト以前から、日本の空間は西洋の建築家を魅了してきた。
フランク・ロイド・ライトは、1905年に初めて日本を訪れた。アメリカ国外への初の旅だった。以後、帝国ホテルの設計のために1917年1月9日に来日し、合計7回の渡航で約3年間を日本で過ごしている。
ライトはこう書いた。「日本の美術の伝統は、この世界でもっとも高貴で純粋なもののひとつだ。西洋は東洋から多くを学ばなければならない。」
帝国ホテルには、障子越しに揺らめく炎を思わせる「光の柱」が設計された。低くて暗いエントランスから光あふれるロビーへと移行する「圧縮と解放」の手法は、日本の茶室の「にじり口」からヒントを得たと言われている。1923年9月1日に開業したこのホテルは、開業当日に関東大震災に見舞われたが、補強された鉄骨と「浮き基礎」構造のおかげで軽微な被害に留まり、ライトの名声を世界的なものにした。(ホテルは1968年に解体され、エントランスロビーは愛知県犬山市の明治村に移築保存されている。)
ミース・ファン・デル・ローエは来日こそしなかったが、日本建築の影響は明白だ。バルセロナ・パビリオンの「壁が構造から解放され、自由に配置される」原理(第18章)は、日本の書院造の障子や襖の原理と驚くほど似ている。壁は固定されず、引けば空間が変わる。閉じれば親密になり、開けば庭と一体になる。
ここに興味深い逆説がある。西洋のモダニストたちが20世紀に「発明」した「流れる空間」「透明な壁」「内と外の連続」は、日本の伝統建築では何百年も前から当たり前だったのだ。
しかし、20世紀の日本自身は、その「当たり前」をどう扱えばいいのか、深く悩むことになる。
和洋折衷──近代化のジレンマ
明治維新(1868年)以後、日本は急速な西洋化を進めた。建築の分野では、イギリスの建築家ジョサイア・コンドル(1852〜1920年)が1876年に工部大学校(現・東京大学工学部)の教授として招聘され、西洋式建築の技術を教えた。
ここから日本の室内は、**「和洋折衷」**という独特の問題に直面する。
和洋折衷(わようせっちゅう)──文字通り「日本と西洋の折衷」。横浜の開港地で幕末に始まったとされるこの言葉は、日本のインテリアが100年以上にわたって抱え続けた難題を一言で表している。
椅子に座るのか、畳に座るのか。靴を履くのか、脱ぐのか。ベッドで寝るのか、布団を敷くのか。壁紙を貼るのか、襖を引くのか。フォークを使うのか、箸を使うのか。
ある研究者は、和洋折衷の建築家たちの手法を**「戦略的折衷主義」**と呼んでいる。西洋建築をそのままコピーするのでも、日本の伝統を頑なに守るのでもなく、建築家の意志で選択的に組み合わせる。そこには「模倣」「引用」「翻案」「抽象化」という4つの段階がある。
この問題は、日本だけのものではない。あらゆる非西洋社会がモダニズムと出会ったときに直面する普遍的なテーマだ。インド、中国、中東、アフリカ、南米──「西洋の技術を取り入れながら、自分たちの文化的アイデンティティをどう守るか」。日本はその問いに、世界でもっとも早く、もっとも徹底的に向き合った社会のひとつだった。
浜口ミホとDKの発明──台所が家の中心になった日
日本の室内空間を根底から変えた人物のひとりが、建築家浜口ミホ(1915〜1988年)だ。日本初の一級建築士資格を取得した女性である。
1949年、34歳の浜口は『日本住宅の封建性』という論文を発表した。日本の伝統的な住宅が内包する封建的な空間構造──客間が最も格の高い場所を占め、台所は暗い北側の隅に追いやられ、家事をする女性は家の最も条件の悪い空間に閉じ込められている──を鋭く批判した。
浜口が提案したのは、**DK(ダイニングキッチン)**という概念だった。
台所を家の中心に移動させる。料理をしながら家族の様子が見える場所に、食事する場所と一体化して配置する。そのために重要だったのがステンレスのシンクの導入だ。「家具のように見える」清潔な台所設備が、台所を「隠すべき場所」から「見せられる場所」に変えた。
この概念は、1955年に設立された日本住宅公団の集合住宅設計に取り入れられた。
公団住宅とnLDK──室内感覚の大転換
日本住宅公団は、戦後の深刻な住宅不足に対応するため、「大都市の中堅所得層向けに住宅を大量供給する」ことを使命として設立された。
公団が建設した団地(だんち)の総数は約70万戸に達した。団地は郊外に林立する画一的な集合住宅で、外観はどこも同じに見える。しかしその内側では、日本人の室内感覚を根底から変える革命が静かに進行していた。
従来の日本の住宅では、台所は暗い裏手に追いやられ、客間(座敷)が家の最も良い場所を占めていた。空間のヒエラルキーは「客>家長>家族>使用人」の順で、女性は最下位に近かった。
公団住宅はこの序列を解体した。
DK──ダイニングキッチンが家の中心に置かれた。北側の暗い隅ではなく、陽の当たる場所に。核家族のための対等な空間が、コンクリートの箱のなかに設計された。1959年には洋式トイレが標準採用され、日本全国での洋式トイレ普及を加速させた。
そして生まれたのが、nLDKという日本独自の間取り表記だ。
nは寝室の数、Lはリビング(居間)、Dはダイニング(食事室)、Kはキッチン(台所)。「3LDK」なら寝室3つ+リビング+ダイニング+キッチン。この表記法は不動産広告の標準になり、日本人は間取りを「nLDK」で考えるようになった。
nLDKは、日本の室内空間の「文法」を書き換えた。
それまで日本の住宅は、ひとつの部屋が昼は居間、夜は寝室、来客時は客間と、時間によって用途を変えていた。ちゃぶ台を出せば食堂になり、布団を敷けば寝室になる。襖を開ければ大広間になり、閉じれば個室になる。──「部屋の機能は固定しない」というのが、日本の伝統的な空間の原理だった。
nLDKは、この原理を西洋式の「部屋ごとに機能を固定する」方式に置き換えた。寝室は寝室。リビングはリビング。食事する場所と寝る場所は別の部屋だ。
これは便利になった面も、失われた面もある。畳の上に布団を敷く「可変的な室内」の柔軟さは、フローリングの上にベッドを置く「固定的な室内」に取って代わられた。第11章で見た「動く壁」としての障子と屏風の文化は、マンションの壁式構造のなかで居場所を失っていった。
3人の日本人デザイナー──世界に示したもの
和洋折衷のジレンマを抱えながら、20世紀の日本は独自のデザイナーたちを輩出した。彼らは「西洋のコピー」でも「伝統の固守」でもなく、第三の道を切り拓いた。
剣持勇(1912〜1971年)──「日本のモダン」を定義した男
東京高等工芸学校(現・千葉大学)を1932年に卒業し、工芸指導所に入所。
1933年、来日したブルーノ・タウトのもとで、椅子の「規範的な原型」に関する研究に従事した。タウトが桂離宮に感動した、まさにその年だ。西洋のモダニストと日本の若きデザイナーが直接出会った、歴史的な瞬間だった。
1950年の夏、彫刻家イサム・ノグチが初来日した際に出会い、ともに**「ジャパニーズ・モダン」**のスタイルを開拓していく。
剣持はまた、チャールズ&レイ・イームズとも親密な関係を築いた。彼らの仕事についてこう語っている。「彼らの作品は、彼らの気取らない人柄そのものが滲み出ている。」
1952年、柳宗理、渡辺力とともに日本インダストリアルデザイナー協会の創設メンバーとなる。
剣持の代表作は、籐(ラタン)の椅子だ。
1958年、山川ラタン社のためにデザインしたラタンチェア。天然の籐を曲げ、編み、日本の伝統的な素材感覚をモダンな形に昇華させた。1960年にはホテルニュージャパンのバーラウンジ用のラウンジチェアを制作。1964年、ラタンチェアはニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久コレクションに収蔵された。同年、グッドデザイン賞(Gマーク)を受賞。
ほかにも、ホテルオークラの客室家具、羽田空港のVIPラウンジ、京都国際会議場の家具など、日本を代表する空間のインテリアを手がけた。
柳宗理(1915〜2011年)──民藝の息子がつくった蝶
柳宗理の父は、柳宗悦(1889〜1961年)。1925年に陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎とともに**「民藝(みんげい)」という言葉を生み出した思想家だ。「民衆の工芸」を略した造語で、名もなき職人がつくる日用品のなかに美を見出す運動だった。1936年には東京・駒場に日本民藝館**を設立している。
宗理は東京美術学校で1934年から学び、1940年代初頭にはフランスから来日したシャルロット・ペリアンが商工省の工芸指導顧問を務めていた時期に、ペリアンの仕事に接している。LC2を共同設計した、あのペリアンだ。
バタフライスツール(1956年)
寸法: 高さ39.4センチ、幅44.1センチ、奥行き30.8センチ(MoMAの記録による) 素材: ローズウッド突板の成形合板2枚、真鍮のストレッチャー(連結棒)1本
2枚の曲面合板が、逆さまのL字を左右対称に向き合わせた形で、1本の真鍮棒だけで連結されている。上から見ると蝶が羽を広げた姿に見える。鳥居にも、日本の書道の筆の払いにも似ている。
天童木工が製造。型番S-0521。1956年の柳宗理工業デザイン展で初公開された。現在はヴィトラからも製造されている。
MoMA(デザイナー本人からの寄贈)、メトロポリタン美術館、香港のM+美術館に収蔵。
柳宗理はこう語っている。「私は、私たち人間が日常生活で役に立つと感じるものを作ろうとしています。」
バタフライスツールは、父・宗悦の「名もなき日用品の美」と、西洋のモダニズム(イームズの成形合板技術)を、ひとつの小さなスツールのなかで出会わせた。日本の伝統的な形の感覚と、工業技術の合理性。──和洋折衷の、もっとも詩的な解答のひとつだ。
倉俣史朗(1934〜1991年)──透明な薔薇の椅子
東京工芸大学で建築を学び、桑沢デザイン研究所でキャビネットメイキングを修得。1965年に倉俣デザイン事務所を設立。
倉俣は東京のバーやレストランの内装デザインを300件以上手がけた。三宅一生のブティックの内装も彼の仕事だ。友人には磯崎新、安藤忠雄、横尾忠則がいた。
1981年、エットーレ・ソットサスの呼びかけに応じて、ミラノのメンフィスグループの創設メンバーとなる。日本のデザイナーが西洋の前衛デザイン運動のコアメンバーになった、画期的な出来事だった。(メンフィスについては第31章で詳しく見る。)
1990年、フランス政府から芸術文化勲章を授与されている。
ハウ・ハイ・ザ・ムーン(1986年)
素材: ニッケルメッキのエキスパンドメタル(金属メッシュ)を溶接 メーカー: ヴィトラ(スイス) 名前の由来: 1940年代のブロードウェイ・ミュージカル『Two for the Show』の挿入歌
アームチェアのシルエットを保ちながら、素材を金属メッシュに置き換えた。椅子の「形」はそこにあるのに、「量感」がない。風が通り抜け、向こう側が透けて見える。**「存在と不在のあいだ」**にある椅子。
MoMA、メトロポリタン美術館、サンフランシスコ近代美術館に収蔵。
ミス・ブランシュ(1988年)
素材: 透明アクリル樹脂に人工の薔薇を封入、陽極酸化アルミの脚 重さ: 約70キロ(アクリルの塊のため) メーカー: 石丸株式会社(東京)
名前はテネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のヒロイン、ブランシュ・デュボアから。映画版でヴィヴィアン・リーが胸に飾っていたコサージュにインスピレーションを得た。ブランシュが生きる幻想と夢の世界を、透明な樹脂のなかに薔薇を閉じ込めることで表現した。
透明な外見とは裏腹に、重さは70キロ。見た目の軽やかさと実際の重さの矛盾──そこに倉俣の詩がある。
手作業で薔薇を型に入れ、液体のアクリル樹脂を流し込んでつくる。量産はできない。一点ずつが、手仕事の結晶だ。
1997年10月、クリスティーズ・ロンドンでの競売で**46,000ポンド(約86,000ドル)**で落札。MoMAに収蔵。
畳の上の近代化──日本が世界に示したもの
この章で見てきた日本のインテリアの歴史を振り返ろう。
西洋への影響: 障子と屏風の「透ける壁」「動く壁」は、ライトやミースのモダニズム建築に直接的なインスピレーションを与えた。タウトが桂離宮に見出した「装飾なき美」は、バウハウスが追い求めた理想の先例だった。
室内の民主化: 浜口ミホのDK概念と公団住宅のnLDKは、日本の室内空間を「封建的な序列の空間」から「民主的な家族の空間」に変えた。台所が家の中心に移動したとき、日本の室内のヒエラルキーは根底から覆った。
デザイナーたちの答え: 剣持勇は籐という日本の素材をモダンに昇華させ、柳宗理は民藝の精神と成形合板技術を蝶の形に結晶させ、倉俣史朗はアクリルと薔薇で「存在と不在のあいだ」を椅子にした。3人とも、西洋をコピーしなかった。しかし伝統に閉じこもりもしなかった。
和洋折衷の問題は、いまだ解決されていない。というよりも、解決すべき「問題」ではなく、日本のインテリアが持ち続ける固有の創造的な緊張なのかもしれない。畳の上にソファを置くとき、障子の前にスタンドライトを立てるとき、フローリングの上に布団を敷くとき──日本の室内は常に「和」と「洋」のあいだで揺れ動いている。その揺れこそが、日本独自のインテリア文化を生み出してきた。
第4幕を閉じる──椅子から見えた20世紀
第4幕では、20世紀が生んだ名作チェアの世界を3つの視点から見てきた。
第26章では、10脚の名作椅子を並べて、20世紀の室内空間の変遷を一望した。構造の露出から形の純化へ、そして身体への回帰へ。建築家たちが椅子に賭けたのは、そこに空間の思想を凝縮できたからだった。
第27章では、北欧デザインが提示した「もうひとつのモダン」を追いかけた。アアルトの白樺、ウェグナーの500脚、ヤコブセンの総合芸術。「冷たいモダニズム」に木の温もりを加えることで、工業生産と手仕事の幸福な結婚を実現した。
第28章では、日本が直面した「畳の上の近代化」を見た。障子が西洋に影響を与え、DKとnLDKが日本の室内を変え、3人のデザイナーが和洋折衷の第三の道を切り拓いた。
3つの章に共通するテーマは、**「モダニズムは一つではない」**ということだ。
バウハウスの鋼管だけがモダニズムではない。アアルトの白樺もモダニズムだ。コルビュジエの白い壁だけがモダニズムではない。柳宗理の成形合板の蝶もモダニズムだ。ミースのガラスだけがモダニズムではない。倉俣史朗のアクリルの薔薇もモダニズムだ。
20世紀のインテリア革命は、ヨーロッパで始まった。しかしそれが北欧の森を通り、日本の畳を横切ったとき、モダニズムは「複数形」になった。
さて、第5幕では、このモダニズムに正面から反旗を翻した人々の物語が始まる。
「Less is More」は退屈だ ── そう叫んだデザイナーたちが、プラスチックの原色で室内を爆発させ、安いラミネートをわざと高級家具に使い、ギリシャの柱をピンク色に塗った。
ポップ・カルチャーとポストモダンの時代へ。──第5幕で、その反乱を追いかけよう。