インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第3章|縄文の炉、弥生のベッド

日本列島の室内進化


ここまで、トルコのチャタル・ヒュユク、スコットランドのスカラ・ブレイと、ユーラシア大陸の西側を旅してきた。

この章では、視線を東の果てへ向ける。日本列島だ。

日本の「室内の歴史」は、竪穴住居から始まる。地面を掘り下げて床をつくり、その真ん中に炉を据える。壁は土と草、屋根は茅や木の皮。派手さはない。でもそこには、何千年もかけて磨き上げられた、静かで確かな空間設計の知恵がある。

縄文時代には炉が空間のすべてを支配していた。弥生時代になると、炊事と居住が分かれ、「寝る場所を一段高くする」という小さな発明が登場する。

たった数十センチの段差。でもそれは、室内の歴史における「静かな革命」だった。


地面を掘って「床」をつくる──竪穴住居という発想

竪穴住居(たてあなじゅうきょ)。名前は聞いたことがある人も多いだろう。小学校の社会科の教科書にも出てくる、あの「地面を掘り込んだ家」だ。

でも、あらためて考えてみると、これはじつに賢い発想だった。

地面を数十センチから1メートルほど掘り下げる。すると、その掘り込んだ面が「床」になり、掘り残した周囲の地面が「壁」の土台になる。その上に柱を立てて屋根をかければ、もう「室内」の完成だ。

なぜわざわざ掘り下げるのか。理由は明快で、地中は気温が安定しているからだ。

真夏の炎天下でも、地面を少し掘れば土はひんやりしている。真冬の凍てつく夜でも、地中は外気ほどには冷え込まない。掘り込んだ床面は、天然の「断熱層」のなかに住居を沈めるようなものだった。

現代の住宅が分厚い断熱材を壁や床に仕込んで温度を管理しているのと、原理はまったく同じだ。ただ、縄文の人々は断熱材の代わりに「地面そのもの」を使った。手元にある素材で最善の快適さを追求する──そこに、設計の知恵がある。

序章の7つのレイヤーで見れば、竪穴住居は「床」のレイヤーに最大の工夫を注いだ住まいだと言える。床を地面の下に沈めることで、「暖房」の効率まで一緒に解決していた。


550棟の住居が語ること──三内丸山遺跡の空間設計

青森県にある三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)。縄文時代の中期、約5900年前から4200年前にかけて営まれた、日本列島有数の大規模集落だ。

この遺跡が考古学の世界を驚かせたのは、そのスケールだった。

発掘された竪穴住居跡は550棟以上。しかもそれだけではない。大型の掘立柱建物、貯蔵穴、墓地、そして集落を貫く道路跡まで見つかっている。ここは「たまたま人が集まった場所」ではない。1700年にわたって計画的に維持・拡張された、巨大な「設計された集落」だったのだ。

個々の竪穴住居を見てみよう。

床面は円形または楕円形に掘り下げられ、中央には石で囲ったがある。柱は炉を取り囲むように規則正しく立てられ、屋根を支えている。住居のサイズにはバリエーションがあるが、炉が中心にあるという基本構成は、どの住居でもほぼ共通している。

前の章で見たチャタル・ヒュユクを思い出してほしい。あの遺跡でも、数百棟の住居が「炉は南壁のそば、ベンチは東側」という共通のルールを持っていた。三内丸山でも同じことが起きている。炉の位置、柱の配置、出入り口の向き──これらに一定のパターンがあるということは、「部屋はこうつくるものだ」という暗黙のルールが、世代を超えて共有されていたことを意味する。

図面が一枚もなかった時代に、どうやってこのルールを伝えたのか。答えはおそらく、チャタル・ヒュユクと同じだ。口伝と慣習。「家を建てるときは、まず真ん中に炉の場所を決めて、そこから柱を立てるんだ」──そんな言い伝えが、親から子へ、棟梁から若者へ、何百年も何千年も受け継がれていったのだろう。

さらに興味深いのは、集落全体の配置にも秩序があることだ。住居群と墓地が分離されていたり、大型建物が集落の特定のエリアに集中していたりする。個々の住居の「室内設計」だけでなく、集落という「まち」全体のゾーニングまで、縄文の人々は考えていたのだ。


炉がすべてだった──縄文の室内を支配した「火」

縄文の竪穴住居に足を踏み入れたとしよう(復元住居に入ることができる遺跡は各地にある)。

まず気づくのは、室内が思ったより暗いことだ。窓はない。壁に小さな隙間はあるかもしれないが、光はほとんど入ってこない。出入り口から差し込む光がわずかにあるだけで、室内の大半は薄暗い。

そのなかで、炉の火だけが赤々と燃えている。

この炉が、縄文の室内のすべてだった。

暖房──冬の東北は厳しい。掘り込んだ床のおかげで地中の温もりは得られるものの、それだけでは足りない。炉の火が、凍える夜を生き延びるための命綱だった。

照明──窓のない室内で、炉の炎だけが光源だ。揺らめく火に照らされた壁と天井が、柔らかい影をつくる。石ランプのようなものが併用されていた可能性もあるが、基本的には炉が室内のすべてを照らしていた。

調理──煮炊きも炉で行う。縄文時代を代表する道具といえば縄文土器だが、あの精緻な文様をもつ鍋は、まさにこの炉の上に据えられて使われた。

団欒──家族が集まるのは、炉のまわりだ。食事をし、道具をつくり、語り合い、やがて眠りにつく。炉の周囲の限られた空間が、縄文の人々にとっての「リビング」であり「キッチン」であり「寝室」だった。

第1章で旧石器時代の焚き火が「空間の中心」だったという話をした。壁のない時代は、火の光が届く範囲が「室内」だった。竪穴住居では壁と屋根ができたが、火の役割は何も変わっていない。むしろ壁と屋根で囲われたことで炉の熱が逃げにくくなり、暖房効率はずっと良くなった。

ただし、ひとつだけ深刻な問題があった。だ。

屋根のてっぺんに煙が抜ける穴はあったようだが、それだけでは十分に排煙できない。室内にはつねに煙がたちこめていたはずだ。目が痛くなり、喉がいがらっぽくなる。現代人にとっては耐え難い環境だが、縄文の人々はこの煙と何千年も付き合いながら暮らしていた。

ちなみに、煙には木材を燻して防虫・防腐する効果がある。竪穴住居の屋根材が煙にいぶされ続けたことで、耐久性が高まっていた可能性も指摘されている。デメリットのなかにも、思わぬメリットが隠れている。


料理は外、暖と灯りは中──機能の分化が始まる

縄文時代の竪穴住居では、炉がすべての機能を担っていた。暖房も照明も調理も、ぜんぶ同じひとつの炉でまかなう。

しかし弥生時代に入ると、この「炉一極集中」に変化が現れる。

弥生時代の代表的な遺跡のひとつ、佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)を見てみよう。紀元前5世紀から紀元後3世紀にかけて営まれた大規模環濠集落で、復元された建物群が広大な敷地に並んでいる。

吉野ヶ里の住居跡を調べると、興味深いことがわかる。住居の内部には炉があるものの、その多くは調理用というよりも暖房・照明用としての性格が強いのだ。大がかりな煮炊きは、住居の外や別棟の「炊事場」で行われていた形跡がある。

つまり、「料理する場所」と「暮らす場所」が分かれ始めたのだ。

これは小さな変化のように見えて、室内の歴史においてはとても大きな一歩だ。

縄文時代の竪穴住居は「万能の一室」だった。料理も睡眠も作業も団欒も、すべてがひとつの空間で完結していた。ちょうど中世ヨーロッパの大広間(グレートホール)が食事も裁判も就寝もこなした「万能の部屋」だったのと似ている(これは第9章で詳しく見る)。

弥生時代になって炊事が外に出ると、住居の内部は「暖をとり、休み、眠る場所」として特化し始める。ひとつの空間がすべてを兼ねる「万能」から、場所ごとに役割を分ける「専門化」へ。──この動きこそが、「機能分化」と呼ばれるものだ。

現代の住宅では、キッチン、リビング、寝室、浴室と、部屋ごとに機能が明確に分かれている。その「分かれる」プロセスの最初の一歩が、弥生時代に踏み出された。


「ベッド状遺構」の登場──寝る場所を一段高くするという発明

弥生時代の室内で、もうひとつ注目すべき変化がある。

ベッド状遺構──考古学ではこう呼ばれている、床面の一部を一段高くした構造物だ。

竪穴住居の床面は基本的に平らだが、弥生時代の一部の住居では、壁沿いに土を盛ったり板を渡したりして、周囲の床面より10〜30センチほど高い「台」をつくっているものがある。この台が、寝台──つまり「ベッド」──として使われていたと考えられている。

たった10〜30センチ。現代のベッドの高さに比べれば、ごくわずかな段差だ。

でも、この「ちょっとした高さの違い」が、室内に決定的な変化をもたらした。

まず、湿気と冷気の問題だ。竪穴住居の床は地面そのものだから、どうしても湿気がこもる。とくに梅雨のある日本列島では、直接地面に寝ると身体が冷えるし、衛生上もよくない。床面を一段高くするだけで、地面から身体を引き離し、空気の層をひとつ挟むことができる。それだけで、寝心地は格段に良くなったはずだ。

次に、空間の「意味」が変わることだ。

平らな床の上では、どこで寝てもどこで座っても、場所に区別がない。ところが一段高い場所ができると、そこは自動的に「特別な場所」になる。少なくとも「ここは寝る場所で、あっちは作業する場所」という区別が、目に見える形で空間に刻まれる。

序章の7つのレイヤーで言えば、「床」のレイヤーに段差をつけることで、「家具」のレイヤー(寝台)と「象徴」のレイヤー(場所の格)を同時に生み出しているのだ。

第2章で見たスカラ・ブレイの石のベッドは、壁沿いに石板で囲った「造り付けの寝台」だった。日本のベッド状遺構も、素材こそ土と木に変わるが、「寝る場所を持ち上げて、他の場所と区別する」という発想はまったく同じだ。ユーラシア大陸の西端と東端で、人々は独立に「床に段差をつける」という同じ解にたどり着いた。

このベッド状遺構は、弥生時代のすべての住居にあったわけではない。比較的大きな住居や、集落のなかでも有力な家族の住居に見られることが多いとされている。もしそうなら、ベッドは「快適さの装置」であると同時に、「この家の格を示す装置」でもあった可能性がある。良い寝床を持つことがステータスだった──これもまた、現代と変わらない感覚だ。


高床式建物──もうひとつの「床を持ち上げる」思想

弥生時代には、竪穴住居とはまったく違う発想の建物も登場している。高床式建物だ。

地面を掘り下げる竪穴住居とは正反対に、柱を立ててその上に床を張り、地面から完全に離れた場所に「室内」をつくる。吉野ヶ里遺跡でも、祭祀用とみられる大きな高床式の建物が復元されている。

高床式建物の目的は主に貯蔵だった。収穫した穀物を湿気やネズミから守るには、地面から離して保管するのがいちばんだ。柱にはネズミ返し(ネズミが登れないようにする板)がつけられていたものもある。

しかしこの「床を地面から切り離す」という発想は、やがて住まいにも応用されていく。弥生時代の後期から古墳時代にかけて、高床式の「居住用」建物が登場する。これが、のちの日本建築──床を張り、靴を脱いで上がる、あの独特のスタイル──の源流になっていく。

竪穴住居の「掘り込み床」と高床式建物の「持ち上げた床」。まるで正反対のアプローチだが、じつは共通しているのは「地面そのものを床にしない」という意思だ。地面を掘って地中に逃げ込むか、地面から離れて空中に浮くか。方法は違うが、どちらも「ただの地面では満足しない」という人間の設計意思の表れである。


縄文から弥生へ──室内空間に現れた「公」と「私」の萌芽

縄文と弥生の室内を比べると、もうひとつ見えてくるものがある。

「みんなの場所」と「個人の場所」の分離だ。

縄文時代の竪穴住居は、基本的に「家族全員の共有空間」だった。炉のまわりに全員が集まり、全員が同じ床の上で眠る。個人だけの場所というものは、あったとしてもごくわずかだっただろう。

しかし弥生時代に入ると、事情が少し変わってくる。

まず、集落のスケールが大きくなる。稲作という安定した食料基盤が人口を増やし、吉野ヶ里のような環濠集落では住居のほかに、祭祀のための建物、首長の住居、見張り台、倉庫群など、用途の異なる建物が集落内に共存するようになる。

集落全体のレベルで「みんなの場所(広場、祭祀空間)」と「特定の人の場所(首長の住居、倉庫)」が分かれ始める。

住居の内部でも同じことが起きていた。ベッド状遺構は、床面の一部を「寝る人のための専用スペース」として切り出す行為だ。それまで均一だった床面に段差をつけることで、「ここは誰かの場所」という意識が空間に刻まれる。

第2章でチャタル・ヒュユクやスカラ・ブレイに「空間の私有化」の芽生えがあったことを見た。日本列島でも、縄文から弥生への移行期に、同じプロセスが始まっていた。

そしてこの「公と私の分離」は、日本の室内史をこの先ずっと貫いていくテーマになる。平安時代の寝殿造では几帳(きちょう)や御簾(みす)で空間を仕切って「私」をつくり、第11章で見る障子や屏風は「動く壁」として公と私を自在に切り替える装置になる。さらに第28章では、戦後の公団住宅が「nLDK」という間取りのなかに「個室」を組み込んだことで、日本人の室内感覚が決定的に変わっていく様子を追いかける。

弥生時代のベッド状遺構は、その長い物語の、いちばん最初のページだ。


7つのレイヤーで見る日本列島の室内進化

この章で見てきた縄文〜弥生の変化を、序章の7つのレイヤーで振り返ってみよう。

──地面を掘り下げた「掘り込み床」が基本。弥生時代には一部を高くした「ベッド状遺構」が登場し、床に段差=意味が生まれた。高床式建物では、地面から離れた「張り床」という新しい発想も芽生えた。

──竪穴住居の壁は掘り残した土の斜面と、その上に立てた木や草の構造体。チャタル・ヒュユクのように漆喰で「飾る」段階には至っていないが、内と外を分ける境界としての壁は確かに存在していた。

天井──茅や樹皮で葺いた屋根がそのまま天井を兼ねた。天井裏と室内の区別はない。煙は屋根の隙間や頂部の開口から抜けていった。

家具──縄文時代には「持ち運べる道具」が中心。弥生のベッド状遺構は、スカラ・ブレイと同じく「造り付け」の家具と呼べるものだった。

照明──炉の火がほぼ唯一の光源。窓のない竪穴住居では、炉が消えれば闇になる。

暖房──炉がすべて。ただし掘り込み床のおかげで地中の安定した温度が利用でき、炉との合わせ技で冬を越していた。

象徴──三内丸山遺跡では、集落の配置そのものに祭祀的な秩序が認められる。弥生時代の環濠集落では、祭祀空間と居住空間の分離が明確になり、「場所の格」が空間に刻まれ始めた。

全体を通して言えるのは、日本列島の室内進化は**「ひとつの部屋がすべてを兼ねる」状態から、「場所ごとに役割を分ける」方向へ**、ゆっくりと、しかし着実に進んでいったということだ。


火を囲んだ人々の1万年

この第Ⅰ部では、旧石器時代の焚き火から、新石器時代の定住集落、そして日本列島の縄文・弥生の室内まで、人類の「室内」がどう生まれ、どう育っていったかを追いかけてきた。

3つの章に共通していたのは、火が空間の主人公だったということだ。

旧石器時代の野営地では、焚き火の光が届く範囲が「室内」だった。チャタル・ヒュユクでは炉が南壁のそばに据えられ、室内のレイアウトを決定した。スカラ・ブレイでは石のベッドと棚に挟まれた中央に炉があった。三内丸山の竪穴住居でも、炉は部屋の真ん中に鎮座し、家族の暮らしを丸ごと支えていた。

数万年のあいだ、人類は火を囲んで暮らしてきた。火が暖めてくれる範囲に身を寄せ、火が照らしてくれる輪のなかで道具をつくり、食べ、眠った。

しかし、次の時代が来ると、火は「空間の主人公」の座を降り始める。

都市と国家が生まれ、宮殿が建てられ、壁が巨大な石のレリーフで覆われる時代。火と炉だけでは追いつかない、もっと大きな力──権力、信仰、技術──が室内を支配し始める。

次の第Ⅱ部では、メソポタミアの宮殿、エジプトの墓、インダスの下水道、中国の建築マニュアル、ギリシャ・ローマの宴会場を訪ねる。「美しさ」「衛生」「権威」「規格」──私たちが今日の室内に求めるものの原型が、すべて古代文明のなかに揃っている。

火を囲んで暮らした1万年の物語は、ここでいったん区切りをつけよう。

でも、火が消えたわけではない。炉は暖炉になり、暖炉はラジエーターになり、ラジエーターはエアコンになって、火の「暖かさ」だけは21世紀の室内にもちゃんと引き継がれている。形は変わっても、人が求めるものは変わらない。──それがインテリアの歴史を読む、いちばんの醍醐味だ。