第31章|安いラミネートをわざと高級家具に使う
メンフィスグループの爆発
1980年12月11日の夜。ミラノ、サン・ガルディーノ通りにあるエットーレ・ソットサスのアパートメント。
集まった若いデザイナーたちの背後で、レコードプレーヤーからボブ・ディランの曲がリピート再生されていた。
「Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again」
ソットサスのパートナーであり批評家でもあったバルバラ・ラディーチェは、その夜のことをこう記録している。「ソットサスが言った。『よし、メンフィスと呼ぼう。』みんなそれは素晴らしい名前だと思った。ブルース、テネシー、ロックンロール、アメリカの郊外。そしてエジプト、ファラオの都。」
ブルースの聖地。エルヴィスの街。そして古代エジプトの首都。──ひとつの名前に、ポピュラーカルチャーと古代文明が同居する。そのカオスこそが、このグループの本質だった。
ソットサス──反逆児は64歳だった
メンフィスの創設者エットーレ・ソットサスは、結成時すでに64歳だった。
反逆は、若者の専売特許ではない。
1917年、オーストリアのインスブルックに生まれた。父はイタリア人建築家。トリノ工科大学を1939年に卒業し、第二次世界大戦ではユーゴスラヴィアの捕虜収容所に収監された。戦後ミラノで設計事務所を開き、1958年からオリヴェッティ社のエレクトロニクス部門のデザインコンサルタントに就任した。
ソットサスのオリヴェッティでの仕事は、それだけで一冊の本になるほど豊かだ。1959年のメインフレーム・コンピュータエレア9003は、イタリアの工業デザイン最高賞コンパッソ・ドーロを初めてコンピュータに与えた。1969年のタイプライターヴァレンタイン(ペリー・キングとの共同デザイン)は、赤いプラスチック筐体の可搬型タイプライターで、「タイプライターのビック・ボールペン」──安くて、軽くて、どこにでも持っていけるもの──を目指した。
1961年のインド旅行が、ソットサスの思想を決定的に変えた。西洋の合理主義とは異なる世界観に触れた経験は、のちのメンフィスの原色と模様に直結する。メンフィスの代名詞ともいえる**「バクテリオ」パターン**──くねくねした線が不規則に走る模様──は、マドゥライの仏教寺院で見た表面のテクスチャーに着想を得たものだ。
ソットサスはこう語っている。「若いころ、私たちが聞かされたのは機能主義、機能主義、機能主義ばかりだった。それだけでは足りない。デザインは官能的で刺激的でもあるべきだ。」
1981年9月──55点の家具が世界を変えた
メンフィスの最初の展覧会は、1981年9月18日と19日、ミラノのアルク'74ギャラリーで開かれた。
展示されたのは55点の家具と照明器具。照明メーカー、アルテミデのボス、エルネスト・ジスモンディが製造資金を提供した。
反響は即座に、そして圧倒的だった。
3か月以内に、世界中の400以上の媒体がメンフィスを報じた。イギリスのデザイナー、ジャスパー・モリソンは「一種の冷や汗と、ショックとパニックの感覚」を覚えたと回想している。テレンス・コンランは「ジョーク・ジャンク(冗談のガラクタ)」と切り捨てた。ある批評家はこう表現した。「バウハウスとフィッシャープライスのできちゃった婚。」
賛否は真っ二つに割れた。しかし、無視できる人は誰もいなかった。
「Carlton」──メンフィスの記念碑
メンフィスの代表作を一点だけ選ぶとすれば、ソットサスの**Carlton(カールトン)**だろう。
1981年のデビュー展で発表されたこの作品は、本棚であり、間仕切りであり、飾り棚であり、チェストでもある。──いや、そのどれとも言い切れない。メトロポリタン美術館のカタログには**「ルーム・ディバイダー(部屋の仕切り)」**と記載されている。
寸法は高さ約195センチ、幅約190センチ、奥行き40センチ。
素材はMDF(中密度繊維板)にプラスチックラミネートを貼ったもの。色は緑、黄、青、赤、ピンク。土台にはバクテリオ・パターン。下部に赤い引き出しが2つ。
ここで立ち止まって考えてほしい。
MDFとプラスチックラミネート。これは、家具の世界では「安物の素材」だ。IKEAのカラーボックスと同じ素材と言ってもいい。キッチンカウンターの表面材だ。普通のデザイナーなら、高級家具にこの素材を選ぶことは絶対にない。
ソットサスは、わざとそれを選んだ。
しかもCarltonは、安物の素材で雑につくられているわけではない。MDFの各パーツは精密にカットされ、ラミネートは丁寧に貼られ、接合部は正確に仕上げられている。安い素材を、高い技術で組み上げている。
「高い素材=高級家具、安い素材=安物家具」という常識を、Carltonはひっくり返した。素材の「格」ではなく、デザインの「意志」が家具の価値を決める。──これがメンフィスの核心的な主張だった。
斜めに傾いた棚板も、意図的だ。普通の本棚は棚が水平で、本が垂直に立つ。Carltonの棚はさまざまな角度で傾いていて、本を立てると倒れてしまう。──しかし、それでいい。本棚は本を「収納する」ためだけにあるのではない。本棚は部屋の中に「形」を持ち込む彫刻でもある。
現在、Carltonはメトロポリタン美術館、MoMA、ヴィトラ・デザイン・ミュージアムなどの永久コレクションに収蔵されている。
メンフィスの星たち──55点を支えたデザイナーたち
メンフィスはソットサスの「ワンマンショー」ではなかった。国際的なデザイナー集団だった。
ミケーレ・デ・ルッキ(1951年生まれ)。イタリア人建築家。代表作**ファースト・チェア(1983年)**は、メンフィスのなかで唯一「量産」に成功した作品だ。約3,000脚が製造された。木の球体が脚の先端についた、おもちゃのような椅子。しかし座り心地は意外にいい。
ナタリー・デュ・パスキエ(1957年生まれ)。フランス人アーティスト。メンフィスのテキスタイルとパターンを手がけ、あの独特の「メンフィス柄」──幾何学模様とポップな色彩の洪水──をつくり上げた。メンフィスの視覚的アイデンティティは、彼女なしには存在しなかった。
ジョージ・ソーデン。イギリス人デザイナーで、メンフィスの唯一のイギリス人メンバー。
マッテオ・トゥーン(1952年生まれ)。オーストリア人建築家・デザイナー。のちにソットサス・アソチアーティを共同設立する。
そして、倉俣史朗(1934-1991)。
倉俣史朗──メンフィスの「日本の顔」
東京出身のインテリアデザイナー倉俣史朗は、メンフィスの結成当初からのメンバーだった。
倉俣のメンフィス作品には、日本の美意識が静かに流れている。
日光キャビネット(1982年)。漆塗りの木と金属でできた収納家具。高さ175センチ、幅57センチの正方形断面。製造数はわずか11台。メンフィスの原色の洪水のなかで、日本の漆器の深い色彩が異彩を放った。
京都テーブル(1983年)。コンクリートとガラスを「テラゾ」のように組み合わせた天板のテーブル。
しかし、倉俣の真の代名詞はメンフィスの「外」にある。
How High the Moon(ハウ・ハイ・ザ・ムーン)チェア(1986年)。スチールメッシュ(金属の網)だけでつくられた安楽椅子。座面も背もたれも肘掛けも、すべてが金属の網。透けて向こう側が見える。家具の「実体感」を消し去り、空間に溶ける椅子。──モダニズムのワシリーチェアが鋼管の「線」で空間を構成したとすれば、How High the Moonは「面の透過」で空間を再定義した。
ミス・ブランチ(Miss Blanche)チェア(1988年)。アクリル樹脂の中に、本物のバラの花びらを封じ込めた椅子。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボアにちなんで名づけられた。透明な樹脂のなかで赤い花びらが永遠に漂う──それは「消えゆくものを永遠に閉じ込める」詩的な行為だった。
倉俣は1991年に56歳で亡くなった。メンフィスに日本の繊細さを持ち込み、メンフィスの後にはメンフィスとはまったく異なる方法で「意味のある家具」をつくり続けた。
デヴィッド・ボウイのメンフィス
メンフィスの影響力を測るうえで、ひとつのエピソードを紹介しよう。
ロック・ミュージシャンのデヴィッド・ボウイは、1990年代からメンフィスの家具を収集し、100点以上を所有していた。きっかけは、若い頃に使っていたソットサスのヴァレンタイン・タイプライターだったという。
2016年1月10日、ボウイが69歳で亡くなった。
同年11月11日、ロンドンのサザビーズでボウイのメンフィス・コレクションがオークションにかけられた。落札総額は約138万7千ポンド(約173万3千ドル)。ボウイの全コレクション・オークション3回分の合計は3,290万ポンドにのぼった。プレセール展覧会には5万1千人以上が来場し、サザビーズ・ロンドン史上最多の動員記録を樹立した。
ロックスターが集めた「冗談のガラクタ」が、数千万ポンドで取引される。──テレンス・コンランの酷評は、歴史によって覆された。
なぜメンフィスは衝撃だったのか
ここで、メンフィスが何を「壊した」のかを整理しよう。
メンフィスが破壊した二項対立は、少なくとも4つある。
① 高い素材 vs 安い素材。 Carltonの素材はMDFとプラスチックラミネート──キッチンカウンターの素材だ。それを「美術館に収蔵される家具」に使った。素材のヒエラルキーが消滅した。
② 手仕事 vs 工業製品。 メンフィスの家具は、安い工業素材を職人の手仕事で精密に組み上げている。「手仕事は伝統工芸、工業素材は量産品」という区分が意味を失った。
③ 機能 vs 装飾。 Carltonの棚は傾いていて本が倒れる。タヒチ・ランプの鳥のくちばしは光源としては不合理だ。しかしそれでいい。家具は「使うもの」であると同時に「見るもの」「感じるもの」でもある。
④ 良い趣味 vs 悪い趣味。 メンフィスの色彩は、従来のデザインの「良い趣味」の基準から見れば、悪趣味そのものだ。原色と蛍光色の衝突、幾何学模様とバクテリオの混在。しかしメンフィスは「良い趣味とは誰が決めるのか?」と問いかけた。
──「良いデザインとは何か」の定義そのものを粉砕すること。それがメンフィスの仕事だった。
6年で解散──しかし影響は永遠に
ソットサスは1985年にメンフィスを離れ、建築事務所ソットサス・アソチアーティに専念した。「強い思想は短命だ。それをさらに発展させることはできない。」
メンフィスは1987年から1988年にかけて解散した(資料により年が異なる)。結成からわずか6年。
しかし、メンフィスが開いた扉は閉じなかった。
「デザインは機能と美の調和でなければならない」──この前提を、メンフィスは完全に解体した。デザインは遊びでもいい。皮肉でもいい。意味不明でもいい。不快でさえいい。──大事なのは、「何かを感じさせる」ことだ。
この遺産は、1990年代以降のデザインに広く浸透している。色の自由、素材の混合、装飾の復権、ユーモアの導入。──メンフィス以前と以後では、「許されるデザインの範囲」がまったく違う。
現在、「メンフィス・ミラノ」のブランド名で製品は再生産されている。Carltonの現在価格は11,000〜15,000ユーロ。ヴィンテージ品はオークションでさらに高値がつく。
かつて「安い素材の冗談の家具」と笑われたものが、高級コレクターズアイテムになっている。──この皮肉そのものが、メンフィス的だと言えるかもしれない。
メンフィスの先へ
メンフィスは破壊した。では、破壊のあとに何が建てられたのか。
次の章では、メンフィスの衝撃を受けて広がったポストモダンのインテリアを見ていく。ギリシャの柱をピンク色に塗り、ゴシックのアーチをネオンで光らせ、歴史の断片を自由に引用して室内を「語らせる」。──ふざけているのか、本気なのか。その両方だ。
それが、ポストモダンだ。