第22章|パイプが椅子になった日
マルセル・ブロイヤーと鋼管家具の誕生
1925年、デッサウ。23歳のマルセル・ブロイヤーは、生まれて初めて自転車を買った。
メーカーはアドラー。ドイツの老舗自転車ブランドだ。
ブロイヤーがこの自転車で気に入ったのは、走り心地ではなかった。ハンドルバーだった。
クロムメッキの鋼管が、なめらかなカーブを描いて手のもとに届く。軽い。強い。そして美しい。──木でも石でもない、工業素材の美しさ。ブロイヤーは考えた。この鋼管を、椅子に使えないだろうか。
彼は地元の自転車屋に尋ねた。「このハンドルバーの鋼管は、どうやって曲げるんですか?」
答えはこうだった。
「マカロニみたいに曲げるんだよ。」
この会話が、家具デザインの歴史を変えた。
ハンガリーの青年、バウハウスへ
マルセル・ブロイヤーは1902年、ハンガリーのペーチュに生まれた。
1920年、18歳でヴァイマールのバウハウスに入学する。木工工房に配属され、家具制作を学んだ。彼の卒業は1924年。バウハウスの最初期の学生のひとりだ。
卒業すると、グロピウスは彼をすぐに**木工工房の主任(マイスター)**に任命した。23歳。工房を率いるには若すぎるように思えるが、ブロイヤーの才能は誰の目にも明らかだった。
学生時代のブロイヤーは、すでに注目すべき家具をつくっていた。アフリカの木彫りにインスピレーションを得た椅子、デ・ステイルの幾何学的構成を応用したスラットチェア──木工の伝統と前衛的な造形を融合させる才能を、20歳そこそこで発揮していた。
しかし1925年、ブロイヤーは木を捨てた。
自転車を買ったあの年から、彼の関心は完全に鋼管に移った。
なぜ鋼管だったのか──マンネスマンの継目なし鋼管
ブロイヤーのアイデアを実現可能にしたのは、ひとつの技術革新だった。
鋼管を家具に使うためには、管を曲げなければならない。しかし当時の一般的な鋼管には**溶接の継目(シーム)**があった。溶接で板を丸めて管にしているため、曲げると継目から潰れてしまう。
ドイツの鉄鋼メーカーマンネスマンが、この問題を解決していた。マンネスマンは**継目のない鋼管(シームレスパイプ)**を製造する技術を完成させていた。熱した鋼の塊に穴を開け、圧延して管にする。溶接の線がないから、どの方向に曲げても潰れない。
この技術がなければ、ブロイヤーの鋼管椅子は存在しなかった。自転車のハンドルバーも、マンネスマンの継目なし鋼管でつくられていた。ブロイヤーが自転車屋で目にしたのは、19世紀末の冶金技術の結晶だったのだ。
モデルB3──世界初の鋼管椅子
1925年から1926年にかけて、ブロイヤーは最初の鋼管椅子を完成させた。
モデルB3。のちに「ワシリーチェア」と呼ばれることになるこの椅子は、世界で初めて鋼管を構造体に使った家具だった。
寸法を確認しよう。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の所蔵品データによれば、高さ71.8センチメートル、幅78.1センチメートル、奥行き71.1センチメートル。
椅子の構造は驚くほどシンプルだ。
クロムメッキの鋼管が、連続したカーブと直線で空間にフレームを描く。座面、背もたれ、肘掛けは、フレームの間に張られた帯状の布で構成される。木の塊を彫り出す従来の椅子とは、まったく異なる原理だ。
従来の「クラブチェア(安楽椅子)」は、木のフレームにバネとクッションを詰め、布で覆い隠す。構造は外からは見えない。座る人は、何が自分を支えているのかを知らない。
モデルB3はすべてを見せる。鋼管のフレームが構造であり、同時に外観でもある。帯状のシートが座面であり、同時にデザインでもある。隠されたものが何もない。
ブロイヤー自身、この椅子についてこう語っている。
「これは私の最も極端な作品だ。外観においても素材の使い方においても。最も非芸術的であり、最も論理的であり、最も居心地が悪く、最も機械的である。」
「最も居心地が悪い(least cosy)」と設計者自身が認めているのが痛快だ。ブロイヤーは快適さよりも原理の純粋さを優先した。クッションで身体を包み込むのではなく、鋼管の線と布の面だけで人を支える。それは「座る」という行為を、構造的に最小限の要素に還元する実験だった。
「アイゼンガルン」──バウハウス織物工房の貢献
初期のモデルB3で座面に使われた素材は、**アイゼンガルン(Eisengarn)**だった。ドイツ語で「鉄の糸」を意味する。
アイゼンガルンは鉄でできているわけではない。綿糸にワックスを染み込ませて硬化させた、非常に強靭な織物素材だ。光沢があり、引裂きに強く、張力に耐える。
この素材の改良に取り組んだのが、バウハウス織物工房の学生マルガレーテ・ライヒャルトだった。ライヒャルトは19世紀に開発されたアイゼンガルンの品質を向上させ、ブロイヤーの鋼管椅子に最適な帯状の布地を開発した。
ここにも、バウハウスの「統合」がある。家具工房が椅子のフレームをデザインし、織物工房がそのためのテキスタイルを開発する。異なる工房が同じ製品のために協働する。──ひとつの椅子が、学校全体のコラボレーションから生まれたのだ。
「ワシリー」という名前の由来
モデルB3が「ワシリーチェア」と呼ばれるようになった経緯は、少し意外だ。
バウハウスで同僚だった画家ワシリー・カンディンスキーが、ブロイヤーの試作品を見て感嘆した。ブロイヤーはカンディンスキーのために複製を制作し、デッサウのマイスターハウスにあるカンディンスキーの自宅に届けた。
しかし、この椅子が「カンディンスキーのためにデザインされた」というのは誤解だ。カンディンスキーが完成品を気に入り、ブロイヤーが個人的に一脚を贈った──それだけの話だ。
「ワシリー」という名前がついたのは、数十年後のことだ。 1960年代、イタリアの家具メーカー**ガヴィーナ(Gavina)がモデルB3の復刻生産権を取得した際、椅子の来歴を調査していてカンディンスキーとの逸話を発見した。マーケティングの観点から、ガヴィーナはこの椅子を「ワシリーチェア」**と名づけて販売した。
名前は後づけだった。しかし「ワシリー」の名は定着し、今日では正式名称のように使われている。
生産の歴史──トーネットからノルへ
モデルB3の生産は、複雑な歴史を辿った。
最初に量産を手がけたのは、意外にもトーネット社だった。第16章で取り上げた、あの曲げ木椅子No.14のトーネットだ。1920年代後半、トーネットはブロイヤーの鋼管家具シリーズのライセンスを取得し、生産を開始した。曲げ木の世界チャンピオンが、曲げ鋼管の量産を引き受けた──素材は変わっても、「管を曲げる」技術は共通していた。
トーネット版の生産は第二次世界大戦中に中断された。
ブロイヤーの初期のデザインの多くは、ベルリンのスタンダード=メーベル・レンジェル社が生産していた。戦後、イタリアのガヴィーナがライセンスを取得し、復刻版を発売。ガヴィーナは初期の布張りに代えて黒革のストラップを採用し、よりシャープな印象を与えた(布張り版も継続販売された)。
1968年、アメリカの家具メーカー**ノル(Knoll)**がガヴィーナを買収し、ブロイヤーの全デザインの生産権を獲得した。以来、ワシリーチェアはノルのカタログで販売され続けている。現在の小売価格は約2,800~3,200ドル。
1925年のバウハウスの工房で生まれた椅子が、100年後の今もカタログに載っている。デザインの寿命としては、驚異的だ。
「空気の中に線を引く」──鋼管家具の革命
ブロイヤーのモデルB3が切り開いた領域は、一脚の椅子にとどまらなかった。
鋼管を家具に使えることが証明された瞬間、世界中のデザイナーが後に続いた。
マルト・スタムは1926年、鋼管で**カンティレバーチェア(片持ち椅子)**を設計した。後ろ脚がない。座面がフレームの弾性だけで空中に浮いている。
ミース・ファン・デル・ローエは1927年にMRチェアを、1930年にブルノチェアを発表した。いずれも鋼管のカンティレバー構造だ。第18章で見たバルセロナ・パビリオンに置かれたバルセロナ・チェア(1929年)も、厳密にはフラットバーだが、金属フレームの家具という系譜の中にある。
ル・コルビュジエは1928年にLC2とLC3──クロムメッキの鋼管フレームにレザークッションを載せたソファ──を発表した。
アイリーン・グレイはE1027サイドテーブル(1927年)で、クロムメッキの鋼管をC字型に曲げ、ソファのアームの下に差し込める形をデザインした。ベッドの上で朝食をとるための家具だ。
これらすべての源流が、1925年のブロイヤーにある。
木の塊を彫り出すものだった椅子が、鋼管の線で空間に描かれるものに変わった。「座る」ための道具が、空間を定義する「彫刻」になった。ブロイヤーの言葉を借りれば、椅子は**「空気の中に線を引く」**行為になったのだ。
工業素材が室内に侵入した日
ワシリーチェアの意味を、インテリアの歴史の文脈で整理しよう。
第16章で見たトーネットのNo.14は、木を曲げることで家具を革命した。6つの部品と10本のネジ。しかし素材はあくまで木だった。5000万脚が売れても、椅子が「木でできたもの」であることは変わらなかった。
ブロイヤーのモデルB3は、素材そのものを変えた。
鋼管。クロムメッキ。工場の配管、自転車のフレーム、水道管──それまで「室内の外側」にあった工業素材が、「室内の中心」に置かれた。
これは単なる素材の置き換えではない。室内空間の「温度」が変わったのだ。
木や布や革で構成されていた室内に、金属の光沢と冷たさが持ち込まれた。手触りが変わり、光の反射が変わり、空間の雰囲気が根底から変わった。
もちろん、このことに抵抗を感じた人も多かった。ブロイヤー自身が「最も居心地が悪い」と認めたように、鋼管の椅子は「くつろぎ」とは対極にある。第19章で見たモダニズムへの批判──「住みやすさの欠如」──の一端は、この冷たい金属の存在感にもあった。
しかし、ブロイヤーが開いた扉は、もう閉じなかった。鋼管はのちにアルミニウムへ、プラスチックへと置き換わり、工業素材が室内を構成する当たり前の選択肢になっていく。第3幕で取り上げるイームズ夫妻の成形合板やFRPシェルチェアは、ブロイヤーが始めた「工業素材の室内への侵入」の延長線上にある。
23歳の遺産
ブロイヤーはバウハウスを離れた後も、建築家として長いキャリアを歩んだ。
1928年にバウハウスを去り、ベルリンで建築設計事務所を開設。1935年、ナチスの台頭を受けてロンドンに逃れ、1937年にアメリカに渡った。ハーバード大学でグロピウスとともに教鞭を執り、1946年からは建築に専念した。ニューヨークのホイットニー美術館(1966年)、パリのユネスコ本部(1958年)など、大規模な建築プロジェクトを手がけた。
しかし、マルセル・ブロイヤーの名前が最も強く結びついているのは、やはりあの一脚の椅子だ。
23歳の青年が自転車屋で「マカロニみたいに」曲げると聞いた鋼管から生まれた、あのモデルB3。100年経った今も生産され続けるデザイン。──それは、バウハウスが生んだ最も端的で、最も永続的な「作品」かもしれない。
第2幕を閉じる──学校の「遺伝子」
第2幕では、バウハウスという学校の物語を追いかけてきた。
14年間しか存在しなかった学校が、デザイン教育そのものを発明した。デッサウの校舎では、ドアハンドルから椅子まで、すべてが同じ設計思想で統合された。そして23歳の家具工房主任が、自転車のハンドルバーから着想を得て、工業素材を室内に持ち込んだ。
ナチスがバウハウスを閉鎖したとき、教師たちはアメリカに渡り、新しい教育機関をつくった。バウハウスの「遺伝子」は、世界中のデザインスクールに引き継がれた。
そして、バウハウスが開いた「工業素材を室内に」という扉は、次の時代に大きく押し開かれることになる。
第3幕の舞台は、第二次世界大戦後のアメリカだ。戦争で開発された軍事技術──成形合板、FRP(繊維強化プラスチック)──が、家具デザインに転用される。チャールズ&レイ・イームズ夫妻が、「安くて、軽くて、美しい」椅子で世界を変える。
戦争が加速した素材革命。──第3幕で、その物語を始めよう。