コラム③|「この建物のためだけにデザインされた椅子」列伝
建築家が空間と家具の一体化にこだわった理由
建築家は、なぜ自分で椅子をデザインしたがるのか。
答えはシンプルだ。他人がつくった椅子を自分の空間に置きたくなかったからだ。
20世紀の建築家たちにとって、建物と家具は同じ思想の異なるスケールだった。壁の角度、光の入り方、床の素材──それらすべてと調和する椅子は、既製品のなかには存在しない。だから自分でつくる。建物ごとに、その空間のためだけの椅子を。
ドイツ語には、この考え方を表す言葉がある。「ゲザムトクンストヴェルク(Gesamtkunstwerk)」──「総合芸術作品」。もともとは作曲家リヒャルト・ワーグナーが1849年に使った概念で、音楽・演劇・美術を統合したオペラを指していた。20世紀の建築家たちはこの概念を室内空間に持ち込み、建物から家具、照明器具、ドアハンドル、カトラリーに至るまで、すべてをひとつのデザイン思想で統一しようとした。
ここでは、建物と不可分の関係にある5つの椅子を紹介する。
バルセロナ・チェア × バルセロナ・パビリオン
ミース・ファン・デル・ローエ&リリー・ライヒ(1929年)
王のための玉座
1929年のバルセロナ万博。ドイツ館の開会式に、スペイン国王アルフォンソ13世と王妃が出席する。この空間にふさわしい椅子を、ミースは設計しなければならなかった。
ただの椅子ではない。国家を代表する空間で、国王が腰を下ろす──それは「近代的な玉座」でなければならなかった。
ミースがたどり着いた形は、X字型に交差するフラットバー鋼のフレームだ。このX字は偶然の形ではない。古代ローマの高官だけが使用を許された折りたたみ椅子「セラ・クルリス」のシルエットを意識的に引用している。古代の権威と20世紀のモダニズムを、一脚のなかで結びつけた。
パビリオンの空間との関係も見逃せない。ミースは「家具のデザインが建築の構造を完成させなければ、室内に調和は生まれない」と語っている。パビリオンの浮遊する屋根、自由に配置された壁面、大理石とガラスとクロムの素材パレット──その空間のなかで、バルセロナ・チェアは動かしようのない固定点として機能した。
パビリオンは万博終了後の1930年に解体され、1983年から86年にかけて復元された。「バルセロナ・チェア」という呼び名が公式に定着したのは、1987年にノル社がマーケティング用に採用してからのことだ。
パイミオ・チェア × パイミオのサナトリウム
アルヴァ・アアルト(1931─32年)
患者の呼吸のために設計された角度
フィンランド南西部の森のなかに建つパイミオのサナトリウム(結核療養所)。アアルトがこの建物の設計を受注したとき、彼はまだ31歳だった。
アアルトの伝記作家イェーラン・シルトは、この建物の設計思想をこう記している。天井の色は静寂のために選ばれ、光源は患者の視界の外に置かれ、暖房は患者の足元に向けられ、水栓からは音を立てずに水が流れる、と。
パイミオ・チェアは、この建物のために──もっと正確に言えば、この建物で治療を受ける結核患者のために──設計された。
一枚の合板を渦巻き状に曲げた座面の角度は、結核患者が呼吸しやすく、痰を出しやすい姿勢になるよう計算されている。素材に白樺の曲げ合板を選んだのは、金属と違って触れても冷たくないからだ。体力の消耗した患者が冷たい椅子に座ることの苦痛を、アアルトは設計段階で排除した。木の表面は消毒液で拭きやすく、衛生管理にも適していた。
パイミオのサナトリウムは、アアルトが自身のデザインした家具だけで全館を家具した最初の建物だった。建築と家具を統一する「総合芸術作品」の手法を、北欧のモダニズムのなかで確立した出発点である。
現在、サナトリウムは小児リハビリテーション施設として使われている。
チューリップチェア × TWAフライトセンター
エーロ・サーリネン(1956─62年)
「脚のスラム街を一掃したい」
サーリネンの有名な言葉がある。「テーブルの下を見ると、椅子やテーブルの脚がごちゃごちゃに絡み合っている。醜く、混乱した、落ち着かない世界だ。私はこの脚のスラム街を一掃したかった」。
チューリップチェアは、この動機から生まれた。一本の台座が花の茎のように座面を支える。テーブルの下には台座が1本あるだけ。「脚のスラム街」は消えた。
サーリネンは彫刻家としての訓練を積んでいた(父エリエル・サーリネンも著名な建築家である)。何百枚ものスケッチを描いたあと、粘土の模型をドールハウスサイズの部屋に並べて検討を重ねた。
本当は椅子全体をFRP(ガラス繊維強化プラスチック)の一体成形でつくりたかった。しかし1950年代の技術では、座面と台座を異なる素材で構成するしかなかった。座面はFRP、台座は鋳造アルミ──サーリネンの理想は技術的に半分しか実現しなかったが、視覚的にはワンピースに見えるように仕上げた。
TWAフライトセンター(1962年)は、チューリップチェアを建築のスケールに拡大したような建物だ。建築史家ジェイン・マーケルは「TWAターミナルは、サーリネンのペデスタルチェアが建物になったものだ」と指摘している。曲面が内部と外部を連続的に包み込み、構造と表皮が一体化する──椅子と建物が同じ造形言語を共有している。
TWA社の倒産後、2001年に閉鎖されたターミナルは2019年に「TWAホテル」として再オープンした。512の客室にサーリネンのウームチェアとチューリップテーブルが配置されている。
レッド&ブルー・チェア × シュレーダー邸
ヘリット・リートフェルト(1917年設計/1923年着色/1924年)
三原色が空間に浮かぶ
リートフェルトがこの椅子をつくったのは1917年。最初は無塗装だった。1923年ごろ、画家バルト・ファン・デル・レックの影響で赤・青・黄・黒に塗り分けられた。
構造は驚くほどシンプルだ。2枚の合板の板(座面と背もたれ)と15本の棒材。リートフェルトは言っている。「構造は各部分に合わせて調整されていて、どの部分も他を支配したり従属したりしない。こうすることで全体が空間のなかに自由に、明確に立つ」。
1924年に完成したシュレーダー邸──デ・スティル運動の原則に完全に基づいて建てられた唯一の建物であり、現在はユネスコ世界遺産──のなかにこの椅子を置くと、黒い壁と床を背景に赤、青、黄の面が空中に浮かんでいるように見える。椅子の構造体が「透明」になり、色彩だけが空間に残る。
リートフェルトは「家具デザイナーには身体的な快適さよりも大きな目標がある。精神の健康と安らぎだ」と考えていた。デ・スティル運動は、第一次世界大戦後のヨーロッパを、調和のとれた人工的秩序によって再生しようとするユートピア思想だった。椅子は座るための道具であると同時に、その思想を日常空間に体現する装置だった。
マッキントッシュの椅子 × ウィロー・ティールーム
チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1903年)
柳の木が室内に生える
グラスゴーの実業家キャサリン・クランストンからの依頼で設計されたウィロー・ティールーム(1903年)は、マッキントッシュが外装から内装まで全権を握った最初の仕事だった。
「ウィロー(柳)」の名は、通りの名前「ソキホール・ストリート」に由来する。ゲール語で「柳の草原」を意味する。マッキントッシュはこの由来を椅子のデザインに直接反映させた。
ハイバックチェアの曲線は柳の木をかたどっている。垂直のスラット(細い縦板)のあいだに水平の板を挿入して格子をつくり、1階のサロンでは半透明の空間仕切りとして機能させた。食卓を囲む椅子の高い背もたれが、テーブルごとに小さな「部屋」をつくり出す。壁を立てずに空間を分節する──この発想は、半世紀後のモダニズムの先取りともいえる。
もっとも贅沢な「ルーム・ド・リュクス」は灰色と紫と白で統一され、高い背もたれの椅子が林立する様子は「若い柳の森」と評された。
当時1脚17シリング6ペンスだったオリジナルの椅子が、2014年のオークションで10万9250ポンド(約2000万円)で落札されている。
ウィロー・ティールームは2018年に1000万ポンドをかけて修復され、「マッキントッシュ・アット・ザ・ウィロー」として再オープンした。
なぜ建築家は椅子を手放さなかったのか
5つの事例を見てきたが、建築家が「自分の建物のためだけの椅子」にこだわった理由は、突き詰めればひとつだ。
空間は、そのなかに置かれたものによって完成する。
壁の色、光の角度、床の素材──建築家がそこまでコントロールしておきながら、最後に既製品の椅子を持ち込んだら、空間の統一性が崩れる。パビリオンの大理石の壁の前に安物のパイプ椅子を置くことを想像してみてほしい。空間の意味が壊れてしまう。
逆に言えば、椅子は空間の「意味」をもっとも凝縮して表現できる装置だ。建物は何千万円もかけて何年もかけて建てるが、椅子なら工房のなかで短期間に試作と修正を繰り返せる。建築家の空間思想を、もっとも手軽に、もっとも濃密に実験できるメディア。それが椅子だった。
バウハウスの創設者グロピウスは、この考え方を「トータルデザイン」と呼んだ。絵画から工場建築まで、家庭用品から都市計画まで、すべてが共通のモダニズム美学を共有するべきだという理想。20世紀のもっとも刺激的な室内空間は、この理想を本気で実現しようとした建築家たちによって生み出された。
もっとも極端な例をひとつだけ挙げよう。ベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデは、1895年に自宅のインテリアを設計した際、妻の服までデザインした。室内空間の色彩と調和しなければならない、というのがその理由だった。
ここまでくると、少し行きすぎかもしれない。
けれど、その「行きすぎ」のなかにこそ、20世紀のインテリアデザインのもっとも面白い部分がある。