第Ⅲ部|布と光と祈り ── 中世から近世の室内世界
西欧中世・イスラーム世界・東アジア・ルネサンス
第Ⅱ部では、古代文明が「室内」に権力と信仰と都市の論理を詰め込む様子を見てきた。
メソポタミアの壁面レリーフ、エジプトの来世用家具、インダスの衛生インフラ、中国の建築マニュアル、ギリシャ・ローマの接客空間。──5つの文明が、5つのまったく異なる方法で「室内をつくる技術」を極めた。
第Ⅲ部では、世界の室内がさらに多様に枝分かれしていく物語に入る。
ヨーロッパ、イスラーム世界、東アジア、そしてイタリアのルネサンス。それぞれがまるで違う方向に室内を発展させた。しかし、その根底には共通する問いがある。
壁をどう使うか。光をどう取り込むか。そして、空間に何を「意味」として込めるか。
4つの世界、4つの答え
この第Ⅲ部では、4つの室内文化を訪ね歩く。
西欧中世(第9章)は「布」の文化だ。 石の城の大広間は寒く、暗く、だだっ広い。そこに暖かさと豪華さをもたらしたのが、タペストリーだった。ただの壁飾りではない。断熱材であり、遮音材であり、間仕切りであり、何よりも「持ち運べるインテリア」だった。ヘンリー8世はおよそ2,000枚のタペストリーを所有していた。王侯貴族は城から城へ移動するたびに、タペストリーを巻いて運んだ。壁に掛ければ、どんな殺風景な石の部屋もたちまち「自分の空間」になる。やがて暖炉と煙突が普及すると、大広間の上階に「個室」が誕生する。
イスラーム世界(第10章)は「光」の文化だ。 偶像を描かないイスラーム美術は、人物像の代わりに幾何学文様とカリグラフィーを極限まで発展させた。アルハンブラ宮殿では、漆喰の透かし彫り(ムカルナス)が光を複雑に屈折させ、タイルの幾何学模様が壁面を無限に増殖し、中庭の噴水が水音と光の反射を室内に引き込む。装飾が空間を構成する──この思想は、西洋のモダニズムとは根本的に異なるインテリアの原理だ。
東アジア(第11章)は「動く面」の文化だ。 西洋の室内が固定された壁で区切られるのに対し、日本の室内は畳・障子・屏風という「動かせる面」で構成されてきた。障子は光を透過しながら空間を仕切り、屏風は置き場所を変えるだけで部屋の用途を切り替える。壁を固定するのではなく、面を動かすことで空間を変容させる。この発想は、はるか後にフランク・ロイド・ライトやミース・ファン・デル・ローエを魅了し、西洋モダニズムの源泉のひとつになった。
ルネサンス(第12章)は「個人の部屋」の文化だ。 それまでの室内は、基本的に「みんなの空間」だった。大広間で食事し、大広間で裁判を受け、大広間で眠った。しかしルネサンス期のイタリアで、ある画期的な発想が生まれる。「自分だけの部屋」を持つという発想だ。結婚を機に室内を一新する婚礼家具カッソーネ、そして知識人が書物と対話するための小さな私室ストゥディオーロ。──「個」のための空間が、ここに芽生える。
壁の使い方が、文明を映す
第Ⅲ部の4つの室内文化を並べて見ると、面白い対比が浮かび上がる。
序章で紹介した7つのレイヤーのうち、「壁」の使い方がとくに際立って違うのだ。
西欧中世は壁に布を掛けた。石の壁そのものには手を加えず、織物を吊るすことで断熱・装飾・間仕切りのすべてを実現した。壁は「覆うもの」だった。
イスラーム世界は壁を彫り、塗り、タイルで覆い、文字を刻んだ。壁面そのものが幾何学と光の芸術作品になった。壁は「光を操る装置」だった。
日本は壁を動かした。障子も屏風も襖も、本質的には「移動可能な壁」だ。壁を固定するという前提そのものを捨て、空間を可変的につくり替える道を選んだ。壁は「動く間仕切り」だった。
ルネサンスのイタリアは壁にだまし絵を描いた。ウルビーノ公フェデリーコの書斎では、木象嵌(インタルシア)で本棚や楽器が壁に描き込まれた。実在しない空間を壁の上に「創造」した。壁は「もうひとつの世界への窓」だった。
どの文明も、壁を「ただの壁」にしなかった。そこに独自の意味を込め、独自の技術で加工し、独自の美学を実現した。この4つの「壁の思想」の違いにこそ、各文化圏の室内哲学が凝縮されている。
「携帯」と「固定」──もうひとつの軸
壁の使い方以外にもうひとつ、第Ⅲ部を通して意識してほしい軸がある。「携帯性」だ。
中世ヨーロッパのタペストリーは巻いて運べた。イスラーム世界のじゅうたんも「持ち運べる庭園」として機能した。日本の屏風は折りたたんで移動できた。──これらはすべて「携帯可能なインテリア」だ。
一方、アルハンブラ宮殿のムカルナスは建築と一体化し、ウルビーノの木象嵌は壁から剥がせない。──これらは「固定されたインテリア」だ。
「持ち運べるか、持ち運べないか」。この違いは、見た目の違い以上に大きな意味を持つ。
持ち運べるインテリアは、権力の「移動」を前提としている。中世の王は一箇所にとどまらなかった。領地を巡回し、各地の城に滞在した。だからこそ、行く先々で「自分の空間」をつくれるタペストリーが必要だったのだ。
固定されたインテリアは、権力の「定着」を前提としている。アルハンブラ宮殿を築いたナスル朝のスルタンたちは、グラナダに腰を据えた。だからこそ、建築と一体化した壮麗な装飾に全力を注ぐことができた。
この「携帯」と「固定」の対比は、実は第Ⅰ部の旧石器時代にも見られた。遊動生活の人々は持ち運べるランプと草の寝具で「室内」をつくり(第1章)、定住した人々は石のベッドを造り付けた(第2章)。その原理が、規模と精度を格段に高めながら、ここで再び現れるのだ。
古代から近世へ──室内の「個人化」が始まる
第Ⅲ部が扱う時代──5世紀から16世紀──は、室内空間の歴史において決定的な転換が起きた時代でもある。
「みんなで使う空間」から「個人の空間」への移行だ。
中世の大広間は、食事も裁判も就寝も同じ部屋で行われる「万能の部屋」だった。プライバシーという概念はほとんどなかった。それが煙突の普及によって個室が生まれ、ルネサンスの書斎によって「自分だけの知的空間」が誕生する。
この「個人化」の流れは、第Ⅳ部以降さらに加速する。ヴェルサイユの寝室は王の私的空間でありながら宮廷儀礼の舞台でもあり(第13章)、産業革命後のヴィクトリア朝住宅は「客間」「食堂」「寝室」「書斎」と部屋が細かく分化していく(第15章)。20世紀のモダニズムはいったんこの個室化に逆行して開放的な空間をつくるが(第Ⅴ部)、結局は「一人一部屋」が現代の住宅の基本になった。
その長い流れの出発点が、ここにある。
4つの世界への旅
さて、最初の目的地に向かおう。
ヨーロッパ中世の城の大広間。石の壁に囲まれた、天井の高い薄暗い空間。床にはイグサやワラが敷かれ、奥に暖炉が燃えている。
そしてその壁には、金糸と銀糸で織り上げられた巨大なタペストリーが掛かっている。
描かれているのは、一角獣(ユニコーン)と貴婦人。赤い背景に千の花が散り、ライオンと一角獣がおごそかに立つ。──1490年ごろに織られたこの6枚組の連作は、中世の室内装飾の最高峰であり、人間の五感を寓意的に表現した謎めいた傑作だ。
500年以上の時を超えて、パリのクリュニー中世美術館に今も掛けられている、あのタペストリーの前に立つところから始めよう。