インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第4章|壁がプロパガンダになった国

メソポタミアの宮殿レリーフ


紀元前9世紀から7世紀にかけて、メソポタミア北部──現在のイラク北部──に、アッシリアという強大な帝国があった。

アッシリアの王たちは、巨大な宮殿を次々に建てた。ニムルド、ドゥル・シャルキン、ニネヴェ──帝国の首都が移るたびに、新しい宮殿が築かれた。

これらの宮殿を特別なものにしているのは、壁だ。

廊下の壁、謁見の間の壁、王座の間の壁──あらゆる壁面が、巨大な石のレリーフ(浅浮き彫り)で埋め尽くされていた。王がライオンを狩る場面。敵国の城を攻め落とす場面。捕虜が連行される場面。神々に捧げ物をする場面。──壁という壁が、王の物語を語り続ける。

現代のロンドン、大英博物館のアッシリア室を訪れると、このレリーフの一部を間近で見ることができる。一枚の石板の高さはおよそ2メートルから3メートル。それが何十枚、何百枚と連なり、長い廊下の両側を覆い尽くしていた。

これは「美しい壁飾り」ではない。壁そのものが、権力のメッセージを発信する装置だった。


「見せつけながら歩かせる」──宮殿の空間体験

アッシリアの宮殿を訪れた外国の使節や属国の王を想像してみよう。

まず、宮殿の門をくぐる。その門の両側にはラマッス──人間の顔、牡牛の身体、鷲の翼を持つ巨大な守護像──が立っている。高さは4メートルを超えるものもあった。

このラマッスには、面白い仕掛けがある。正面から見ると4本脚で堂々と立っているように見えるが、横から見ると歩いているように見える。じつは脚が5本彫られているのだ。正面から見る人にも横から見る人にも「力強い姿」を見せるための、巧みなデザインだった。

門をくぐると、長い廊下が始まる。

その廊下の壁面が、すべてレリーフで覆われている。まず見えるのは、王が戦車に乗って敵を追い散らす場面。次に、王が弓を引いてライオンを射る場面。さらに進むと、征服された都市の住民が貢物を運んでくる場面。──歩けば歩くほど、王の偉大さが目に飛び込んでくる。

そして廊下の果てに、王座の間がある。

この「歩く過程で王の偉大さを全身に浴びせる」構造は、偶然そうなったのではない。意図的に設計されたインテリアの空間体験だ。

現代の言葉で言えば、これは「空間のシークエンス(sequence)」──空間を一連の体験として設計する手法──にほかならない。美術館の展示動線、ブランドショップの入口から奥への導線、テーマパークのアトラクションの入場待ちの通路。私たちが「いい空間体験だ」と感じるものの多くに、この「歩きながら見せる」原理が使われている。

3000年近く前のアッシリアの宮殿が、すでにこの原理を完璧に使いこなしていたのだ。


石に刻まれた「読めなくても効く」メッセージ

宮殿のレリーフには、しばしば楔形文字のテキストが添えられていた。

王の名前、戦争の記録、神への感謝。石板の平らな部分に、びっしりと文字が刻まれている。ニネヴェの王アッシュルバニパルの宮殿では、レリーフの上部に帯状の碑文がぎっしり並ぶ石板もあった。

しかし──ここが重要なのだが──この文字を読めた人は、ごく少数だった。

楔形文字は専門の書記が読み書きするもので、一般の人々はもちろん、外国から来た使節にも読めなかった可能性が高い。では、読めない文字を壁に刻むことに意味はあるのか。

ある。

文字が刻まれた壁面を前にしたとき、たとえ一文字も読めなくても、そこに「何か重要なことが書いてある」ことは直感的にわかる。整然と並んだ文字の列は、この国に「記録する力」「知識を管理する力」があることを、見る者に無言で伝える。現代の私たちが、外国語で書かれた法律文書を見たときに感じる「何だかわからないけれど権威がある」という感覚に近い。

レリーフの図像は、文字が読めない人にも直観的にメッセージを伝えた。王がライオンを仕留める姿を見れば、「この王は強い」と誰でもわかる。敵兵が逃げ惑う場面を見れば、「この国の軍は怖い」と誰でも感じる。

図像は「わかる人」に向けたメッセージではなく、「誰にでも」効くメッセージだった。 これはまさに現代の広告やプロパガンダの原理そのものだ。文字が読めない層にもリーチする──そのためにビジュアルを使う。アッシリアの宮殿は、3000年前にこの原理を壁のレリーフで実践していた。

序章の7つのレイヤーで言えば、ここでは「壁」と「象徴」の2つのレイヤーが完全に融合している。壁は空間を囲う構造体であると同時に、王の権力を語るメディアでもある。壁が「語る」──この発想は、のちにローマの壁画、中世の教会のフレスコ画、そして20世紀の企業オフィスのブランドウォールへと、かたちを変えながら引き継がれていく。


ニムルドからニネヴェへ──宮殿レリーフの進化

アッシリア帝国の宮殿は、都が移るたびにスケールアップしていった。レリーフもまた、進化した。

アッシュルナツィルパル2世のニムルド(紀元前9世紀)

帝国初期の宮殿が置かれたニムルド。ここの壁面レリーフは比較的シンプルで、王の姿は理想化された定型的なポーズで描かれることが多い。表情は硬く、場面はやや図式的だ。しかし、門のラマッスの巨大さはすでに圧倒的で、宮殿全体の空間構成──「歩かせながら見せる」の原型──はここで確立されている。

サルゴン2世のドゥル・シャルキン(紀元前8世紀後半)

現在のホルサバードにあたる場所に、サルゴン2世がゼロから築いた新しい都。宮殿の規模はニムルドを大きく上回り、レリーフの技術も向上した。人物の表現にやや動きが加わり、場面の描写が具体的になった。

アッシュルバニパルのニネヴェ(紀元前7世紀)

アッシリア最後の偉大な王アッシュルバニパルの宮殿。ここのレリーフは、アッシリア美術の最高到達点と言われている。

とくに有名なのが、「ライオン狩り」の連作だ。

王が戦車から矢を放つ場面、槍でライオンを刺す場面──ここまでは、前の時代のレリーフにもあった。しかしニネヴェのレリーフが決定的に違うのは、傷ついたライオンの表情と身体が驚くほどリアルに彫られていることだ。

矢を受けて後脚が立たなくなったライオンが、前脚だけで必死に身体を引きずる。口を大きく開けて吠えるライオンの苦痛の表情。──この描写は、単なる「王の武勇伝」を超えて、倒される側の動物への深い観察力と、ある種の共感さえ感じさせる。

大英博物館でこのレリーフを見ると、3000年近い時を超えて、ライオンの苦しみが直接こちらに伝わってくる。壁面彫刻がここまでの表現力を獲得したことは、世界美術史においても特筆すべき達成だ。

そしてこの「表現の進化」は、そのままインテリアの進化でもある。宮殿の壁面がどんどんリアルに、どんどん物語的になっていく。室内にいる人間の感情を、より強く、より確実に動かすために。


「窓のない宮殿」をどう明るくしていたか

アッシリアの宮殿には、もうひとつ注目すべきインテリアの問題がある。照明だ。

メソポタミアの宮殿建築は、基本的に窓が少ない。あるいはほとんどない。分厚い日干し煉瓦の壁で囲まれた空間は、外光がほとんど入らない。

理由はいくつか考えられる。まず、セキュリティ。窓は侵入口になりうる。次に、気候。メソポタミアの夏は灼熱で、窓を開ければ容赦ない熱気が入り込む。分厚い壁で外気を遮断し、室内を涼しく保つほうが合理的だった。

しかし窓がなければ、室内は暗い。あの巨大なレリーフも、光がなければ見えない。「見せるために彫った壁」が暗闘に沈んでしまっては意味がない。

では、どうしたのか。

考古学的な証拠と、のちの時代の記録から推測される照明手段は、いくつかある。

松明(たいまつ)と油灯。 壁面に取り付けた金属の受け具に松明を立てたり、オリーブ油やゴマ油を使った灯火を置いたりしていた可能性が高い。松明の揺れる光がレリーフの表面に当たると、浅い彫りに陰影が生まれ、図像がぐっと立体的に浮き上がる。

現代の博物館でも、照明の角度を変えるだけでレリーフの見え方が劇的に変わる。斜めから光を当てると溝に影が落ち、図像がくっきり浮かび上がる。アッシリアの宮殿で松明が揺れたとき、壁のライオンや兵士たちもまた「動いて」見えたに違いない。

採光用の高窓や屋上の開口部。 一部の部屋には天井近くに小さな開口部が設けられ、そこから光を取り入れていた可能性もある。直射日光ではなく拡散光として取り込むことで、まぶしさを抑えながら室内を明るくする──そういう工夫だ。

反射面の利用。 漆喰で白く塗られた壁や床が、わずかな光を反射して室内を明るくする効果をもっていた。チャタル・ヒュユクの白い漆喰にも同じ機能があったかもしれないが、アッシリアの宮殿では意図的にこの効果を活用していた可能性がある。

いずれにせよ、アッシリアの宮殿の空間体験は、暗闘のなかで松明やランプの光に浮かび上がるレリーフを見ながら歩くというものだったはずだ。

現代の私たちが、美術館のスポットライトに照らされた彫刻を見て感動するのと同じ原理が、3000年前の宮殿にも働いていた。いや、むしろ宮殿のほうが効果的だったかもしれない。揺らぐ炎の光に照らされたレリーフは、静止画ではなく「動く壁画」のように見えたはずだから。

序章の7つのレイヤーで言えば、アッシリアの宮殿は「壁」「照明」「象徴」の3つのレイヤーが精密に連動した空間だったことになる。壁のレリーフは照明と組み合わせることで最大の効果を発揮し、その効果の目的は「象徴」──王の権力の可視化──だった。


「見せる」インテリアの原型

ここまで見てきたアッシリアの宮殿は、ある意味で「見せることに特化したインテリア」の最初の完成形だ。

快適に暮らすためではない。そこで料理をしたり眠ったりするための空間ではない。訪れた人に特定のメッセージを植えつけるために、空間の動線、壁面の図像、照明の効果──すべてが計算されていた。

この「空間で人の心を操作する」という発想は、のちの歴史で何度も繰り返される。

ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」は、357枚の鏡で訪問者を圧倒した(第13章)。ナチスドイツの建築家アルベルト・シュペーアは、巨大な空間で群衆を飲み込むデザインを追求した。現代のブランドショップは、入口から奥へと歩くあいだにブランドの世界観を体感させるように設計されている。

こうした「見せるインテリア」の系譜を遡れば、その出発点にはアッシリアの宮殿がある。壁にレリーフを彫るという、気が遠くなるような労力をかけてまで、王たちが室内を「メディア」に変えた──その事実は、「空間にはメッセージを埋め込める」という人類の発見を物語っている。


宮殿の奥にあった「暮らしの部屋」

もっとも、アッシリアの宮殿がすべてプロパガンダ一色だったわけではない。

宮殿の公式エリア──謁見の間、王座の間、儀式用の廊下──は確かにレリーフで埋め尽くされていた。しかし、その奥には王や王族が実際に暮らす私的な区画もあった。

この私的区画の発掘はまだ十分に進んでいないが、壁面の装飾がより簡素だったり、小さな部屋が連なる構成だったりすることが報告されている。パブリックな空間とプライベートな空間の「使い分け」が、すでに意識されていたことがうかがえる。

この「公」と「私」の分離は、第Ⅰ部の最後で見た縄文から弥生への変化──集落のなかに「みんなの場所」と「個人の場所」が分かれ始めた動き──をさらに推し進めたものだ。アッシリアの宮殿では、この分離が建築の規模においても、空間デザインの質においても、はるかに明確になっている。

「客に見せる顔」と「自分たちの暮らし」を空間的に分ける。──現代の住宅でも、来客用のリビングと家族だけのファミリールームを分けることがある。その「使い分け」の意識は、3000年前のメソポタミアにすでに存在していた。


メソポタミアが残したもの

アッシリア帝国は紀元前612年にニネヴェが陥落して滅亡した。宮殿は破壊され、やがて砂に埋もれた。

しかし19世紀にヨーロッパの考古学者たちが発掘を行い、大量のレリーフが掘り出された。それらは大英博物館、ルーヴル美術館、イラク博物館などに収蔵され、今も見ることができる。

メソポタミアがインテリアの歴史に残した遺産は、ひとことで言えばこうだ。

壁は「囲うもの」であるだけでなく、「語るもの」にできる。

この発見は、人類の室内空間の可能性を一挙に広げた。壁はもう受動的な面ではない。そこにメッセージを刻み、物語を展開し、見る者の感情を動かすことができる。壁が能動的な「メディア」になった。

次の章では、メソポタミアとほぼ同時代に、ナイル川のほとりで別の「室内の思想」を育んでいた文明──エジプト──を訪ねる。

エジプトの人々は壁ではなく、家具に並外れた情熱を注いだ。しかも、その家具は「この世で使うもの」ではなく、「来世で使うもの」だった。死者のために、3300年前の職人たちがどれほど精緻な家具をつくり上げたか。その驚くべき工芸の世界へ、足を踏み入れよう。