第27章|北欧が教えた「もうひとつのモダン」
木と手仕事の温もり
1960年9月26日、シカゴ。
アメリカ史上初のテレビ大統領候補討論会。ジョン・F・ケネディとリチャード・ニクソンが、全米7000万人のテレビ視聴者の前で相対した。
ケネディは日焼けした顔で落ち着いた表情。ニクソンは汗をかき、緊張した面持ち。テレビの画面越しに見たアメリカ国民は、ケネディの圧勝だと感じた(ラジオで聴いた人はニクソン優勢だと感じた、という有名な逸話がある)。
しかし、家具デザインの歴史において重要なのは、討論の内容ではない。
2人の候補者が座っていた椅子だ。
それは、デンマークの家具職人ハンス・ウェグナーが1949年にデザインしたラウンドチェアだった。重度の腰痛に苦しんでいたケネディの陣営が、長時間座っても楽な椅子を探した結果、この椅子に行き着いたと言われている。
討論会の翌日、アメリカ中がこの椅子に注目した。「あの椅子は何だ?」──問い合わせが殺到した。すでに1950年にアメリカのインテリア雑誌『Interiors』が「世界でもっとも美しい椅子」と評していたこのラウンドチェアは、テレビ討論会をきっかけに単に**「ザ・チェア」**と呼ばれるようになった。
デンマークの小さな工房で、木と紙縄でつくられた椅子が、世界最強国の大統領選挙の舞台に立った。これが「北欧デザイン」の力だ。
バウハウスとは違う道
第2幕で見たバウハウスは、「鋼管とガラス」のモダニズムを推し進めた。ブロイヤーのワシリーチェアは冷たい金属の「線」で身体を支え、ミースのバルセロナ・チェアはクロムの「面」で古典の権威を再現した。
同じ20世紀に、北欧はまったく別の道を歩んでいた。
鋼管の代わりに白樺とオーク。クロムメッキの代わりに木目と手触り。大量生産の効率よりも職人の手仕事の精度。
しかし、これは「反モダニズム」ではなかった。19世紀のウィリアム・モリスのように機械を否定したわけではない。北欧のデザイナーたちは工業生産と手仕事を対立させなかった。機械でできることは機械に任せ、手でしかできないことは手でやる。その使い分けが見事だった。
なぜ北欧は、この独自の道を歩めたのか。
理由はいくつかある。まず、豊富な森林資源。フィンランドもデンマークもスウェーデンも、木材に恵まれた国だ。鋼管を輸入するよりも、自国の白樺やブナを使うほうが自然だった。次に、手工芸の伝統が残っていたこと。産業革命が遅れて到来した北欧では、職人の技術が途切れずに受け継がれていた。そして何より、**「すべての人に美しいものを」**という民主的なデザイン哲学があった。
スウェーデンの社会改革者エレン・ケイは、こう宣言している。「美しいものが醜いものと同じ値段で買えるようになって初めて、すべての人のための美が実現する。」
この精神を、3人の巨匠の仕事を通して見ていこう。
アルヴァ・アアルト──白樺の森を室内に持ち込んだ建築家
アルヴァ・アアルト(1898〜1976年)。フィンランドの建築家。
アアルトの出発点は、意外なことに結核療養所だった。
1929年、31歳のアアルトは、パイミオ・サナトリウムの建築コンペに勝った。結核患者のための治療施設だ。アアルトはこの建物を**「医療器具」**と呼んだ。白い壁、大きな窓、太陽光が降り注ぐテラス──建築そのものが治療の一部になるという発想だった。
そしてアアルトは、この療養所のためにひとつの椅子をデザインした。パイミオ・チェア(アームチェア41番)、1931〜1932年。
高さ64センチ、幅60センチ、奥行き80センチ、座面高33センチ。フレームは白樺のラメラ(薄板)を曲げてつくった2つの閉じたループで、脚と肘掛けとフロアランナーを一体的に構成している。座面は1枚の合板を曲げた曲面で、フレームとは4点だけで接続されている。つまり、座面がフレームの上に「浮いて」いるのだ。
なぜこの形なのか。結核患者は呼吸がつらい。背もたれを大きく傾けることで肺が開き、呼吸が楽になる。座面の曲面は患者の身体を包み込み、咳き込んだときの衝撃を吸収する。V&A美術館はこの椅子を**「世界初の柔らかい木の椅子」**と評している。
着想源はブロイヤーのワシリーチェアだった。しかしアアルトは、冷たい鋼管の代わりにフィンランドの白樺を選んだ。病人が触れるものは、金属より木のほうがいい。手で触れたときの温もり、肌に吸いつかない感触。──素材の選択は、デザインの思想そのものだった。
当初、肘掛け部分にはブナ材が使われていたが、1934年にすべて白樺に切り替えられた。「発明も原材料も製造も、100%フィンランド産」として売り出すためだ。
「柱の妹」──L字脚の発明
アアルトの最大の技術的功績は、前章でも取り上げたL字脚の発明だ。
フィンランドの白樺は、トーネットが使ったブナ材に比べて曲げにくい。アアルトは家具職人オットー・コルホネンとともに、1920年代後半から木の曲げ方の研究を続けた。
解決策はこうだ。白樺の角材の端に、木目に沿って最低6本の平行な切れ込みを入れる。その切れ込みに薄い突板を差し込んで接着する。そして熱と圧力をかけて90度に曲げる。切れ込みを入れた部分だけが曲がり、残りはまっすぐのまま。──こうして、木の直線と曲線がひとつの部材のなかで共存するL字脚が生まれた。
この脚を使って最初に生まれた製品が、前章で見た**スツール60(1933年)**だ。3本のL字脚と丸い座面。たったそれだけの要素で、椅子にもテーブルにも踏み台にもなる万能の道具をつくった。
L字脚の特許は1933年11月8日にイギリスで、翌年の11月7日にフィンランドで取得された。この1本の脚から、50種類以上の家具が生まれている。
白樺の原木は、屋外で約6カ月間自然乾燥させてから製材に入る。フィンランドの長い冬の寒さが、木材をゆっくりと締める。急いではいけない。──北欧デザインのリズムは、北欧の自然のリズムに合わせている。
ハンス・ウェグナー──椅子の王
ハンス・ウェグナー(1914〜2007年)。デンマークの家具デザイナー。
生涯でデザインした椅子の数、約500脚。うち100脚以上が量産された。スミソニアン博物館やクーパー・ヒューイット国立デザイン博物館が記録したこの数字は、彼に**「椅子のマスター」「椅子の王」**という称号をもたらした。
ウェグナー自身はこう語っている。「椅子に背面があってはいけない。どの角度から見ても美しくなければならない。」
ラウンドチェア / ザ・チェア(1949年)
寸法: 高さ76センチ、幅55センチ、奥行き51センチ、座面高45センチ 型番: PP501(籐座面)、PP503(布張り座面)
この椅子は、わずか48時間でデザインされたと言われている。家具メーカーのヨハネス・ハンセンが「もっと伝統的な椅子を」と求めたとき、ウェグナーが応じたのがこれだった。
背もたれと肘掛けは、11片の木材をジグザグ状に接合して、ひとつの連続した半円を描いている。この半円が、座る人の腕を自然に受け止める。中国の明代の椅子にインスピレーションを受けたこの形は、「東洋と西洋の結婚」とも評された。
冒頭で触れたケネディ=ニクソン討論会ののち、この椅子はスミソニアン博物館に収蔵された。
Yチェア / ウィッシュボーンチェア / CH24(1950年)
寸法: 高さ76センチ、幅55センチ、奥行き51センチ、座面高45センチ 素材: 蒸気曲げ木(オーク、アッシュ、ブナ、ウォールナット、チェリーの各仕様あり)、ペーパーコードの座面
ウェグナーの最大の商業的成功作であり、彼の「中国椅子シリーズ」の最終形だ。中国の明代の椅子から出発して、何世代ものスケッチを経てたどり着いた。
この椅子の背もたれにはY字形の部材がある。叉骨(ウィッシュボーン)に似ているから、この名がついた。
製造には100以上の工程が必要で、そのほとんどが手作業だ。座面のペーパーコードを編むだけで約120メートルの紐を使い、熟練した職人でも約1時間かかる。
1950年からカール・ハンセン&サン社で生産が始まり、現在まで一度も中断されていない。70年以上にわたる連続生産だ。
面白いのは日本との関係だ。Yチェアの年間生産量のうち、4分の1以上が日本向けに販売されている。日本語で書かれたYチェアの専門書まで出版されているほどだ。1990年代半ばには、ヨーロッパ・アメリカ市場向けに座面高を2センチ上げたが、アジア市場向けにはオリジナルの高さで生産を続けている。
木の温もりとペーパーコードの手触り。明代中国の造形美とデンマークの職人技。東と西、手仕事と工業。──Yチェアは、北欧デザインのすべての美徳をひとつの椅子に凝縮している。
アルネ・ヤコブセン──すべてをデザインする建築家
アルネ・ヤコブセン(1902〜1971年)。デンマークの建築家・デザイナー。
アントチェア(1952年)
寸法(3本脚モデル): 高さ78センチ、幅51センチ、奥行き48センチ、座面高44センチ 素材: 9層の成形合板+2層の綿テキスタイル、14ミリ径のクロムメッキ鋼管脚
もともとは製薬会社ノボ・テラプティスク(現ノボ・ノルディスク)の社員食堂のためにデザインされた。
ヤコブセンはこう考えた。「椅子に4本の脚が必要な理由があるだろうか。3本で十分ではないか。」 機能的にも美的にも、3本脚が理想の解だと確信していた。4本脚のモデルは、安定性を求める市場の声に応えて後から開発された。
しかし製造元のフリッツ・ハンセン社は当初、この奇妙な椅子に懐疑的だった。そこでヤコブセンはこう約束した。「誰も買わなかったら、生産した椅子は私がすべて買い取る。」
粘土の模型を彫刻家のように削って形を決めた。背もたれの最も湾曲が強い部分が最も細い「くびれ」になっているのは、機能的な必然だ──曲げの頂点ではベニヤの応力が最大になるため、幅を狭くして均一な曲率を実現した。
その形が蟻に似ていたから、「アントチェア」の名がついた。
セブンチェア / モデル3107(1955年)
寸法: 高さ78〜82センチ、幅50〜52センチ、奥行き48〜52センチ、座面高43〜46センチ 素材: 9層の成形合板+2層の綿テキスタイル、クロムメッキ鋼管脚
フリッツ・ハンセン社は、この椅子を**「フリッツ・ハンセン史上最も人気のある椅子」**と呼んでいる。確かにデザイン史上最も多く売れた椅子のひとつだ。
しかし、セブンチェアを世界的に有名にしたのは、意外な一枚の写真だった。
1963年5月、ロンドン。写真家ルイス・モーリーがソーホーのスタジオで撮影した、クリスティーン・キーラーのポートレート。キーラーが裸で椅子にまたがり、背もたれを正面に向けて体を隠している、あの有名な写真だ。
ところが、この椅子は本物のセブンチェアではなかった。ヒールズで5シリングで買った安物のコピー品で、背面に手で穴が切り抜いてあった。このコピー椅子は現在、ヴィクトリア&アルバート美術館に収蔵されている。
偽物の椅子が撮った一枚の写真が、本物の椅子を世界で最も有名にした。──デザインの歴史は、こういう皮肉に満ちている。
エッグチェアとスワンチェア(1958年)── 総合芸術の頂点
エッグチェアについては前章でも触れたが、ここではSASロイヤルホテルという「総合芸術」の文脈で改めて見てみよう。
1960年7月に開業したSASロイヤルホテルは、コペンハーゲン初の超高層建築だった。地上22階建て、高さ70メートル、客室275室。
ヤコブセンは、建築だけでなく、家具、照明器具、テキスタイル、ドアハンドル、サイン計画、グラスウェア、カトラリー、灰皿──ありとあらゆるディテールを自分でデザインした。「建物だけでなく家具、カトラリー、照明器具、テキスタイル、ドアハンドル、サイン、グラスまでデザインした世界最初のデザイナー」とまで評されている。
エッグチェアの製造には技術革新が伴った。フリッツ・ハンセン社が1950年代半ばに獲得した、硬質フォーム材の新しい成形技術がこれを可能にした。木材の制約から解放されたことで、ヤコブセンの彫刻的なビジョンがそのまま形になった。直線がひとつもない、すべてが曲面だけで構成された椅子。
エッグとスワン。この2つの椅子は、ロビーに座った人に「自分だけの空間」をつくり出す。広い公共空間のなかに、椅子の曲面が親密なシェルターを形成する。
北欧デザインはなぜ世界を席巻したのか
アアルト、ウェグナー、ヤコブセン。3人の仕事に共通するのは、**工業生産と手仕事の「幸福な結婚」**だ。
バウハウスは工業生産を全面的に受け入れた。モリスは手仕事に回帰した。北欧のデザイナーたちは、そのどちらでもなく、どちらでもある道を歩んだ。
機械で曲げられる木は機械で曲げる。しかし120メートルのペーパーコードを1時間かけて編む座面は、人の手でしかつくれない。椅子のフレームは工場でプレスするが、最終的な仕上げは職人の目と手に委ねる。
この「使い分け」の背景には、北欧特有の社会的条件があった。
第一に、福祉国家の理念。 北欧諸国の政府は、すべての国民が良質なデザインにアクセスできるよう、デザイン振興政策を積極的に推進した。
第二に、手工芸の伝統が途切れなかったこと。 産業革命がイギリスより遅く到来した北欧では、木工や織物の職人技が世代を超えて受け継がれていた。
第三に、「ヒュッゲ」という文化的価値観。 デンマーク語で「居心地のよさ」「くつろぎ」「幸福感」を意味するこの言葉は、北欧デザインの根底にある。長い冬を室内で過ごす北欧の人々にとって、室内の快適さは生存に関わる問題だった。
そしてこの北欧デザインが世界的に知られるきっかけになったのが、「デザイン・イン・スカンジナビア」展だ。1954年から1957年にかけてアメリカとカナダの24都市を巡回したこの展覧会は、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの国王の後援を受けていた。「スカンジナビアン・デザイン」という言葉そのものが、この展覧会から生まれた。
「冷たいモダニズム」への処方箋
北欧デザインの最大の功績は、第19章で指摘したモダニズムの「冷たさ」への解答を示したことだろう。
白い壁、鋼管の椅子、ガラスの窓。ル・コルビュジエやミースの室内は、写真映えはするが、実際に暮らすと冬は寒く、子どもの声は筒抜けで、物の置き場に困った。「Less is More」は美しい理念だが、人間は「温もり」も必要とする。
北欧デザインは、モダニズムの合理性を捨てなかった。しかし、そこに木の手触り、手仕事の温もり、自然素材の親しみやすさを加えた。モダンであることと温かいことは矛盾しない──この証明が、北欧デザインの最大の遺産だ。
アアルトの白樺は、ブロイヤーの鋼管と同じ時代に生まれた。ウェグナーのYチェアは、イームズのFRPシェルと同じ時代に売られていた。しかし手で触れたときの感覚は、まるで違う。
冷たい金属か、温かい木か。その選択は、「どんな空間で暮らしたいか」という問いそのものだ。
東へ、さらに東へ
北欧デザインが「バウハウスの外側」のモダニズムだったように、もうひとつの「外側」がある。
日本だ。
障子という「透ける壁」は、ミースの「流れる空間」よりも何百年も前から存在していた。畳という「柔らかい床」は、北欧の木の温もりとは異なる原理で身体を受け止めてきた。
そして20世紀、日本の室内は「和洋折衷」という独特の問題に直面する。椅子に座るのか、床に座るのか。靴を脱ぐのか、履いたままか。壁紙を貼るのか、襖を引くのか。
次の章で、畳の上の近代化という難題に向き合った日本のデザイナーたちの物語を追いかける。