インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第11章|座る文化と寝転ぶ文化

東アジアの床座・障子・屏風


ここまで、石の壁にタペストリーを掛けたヨーロッパ、漆喰とタイルで壁を光の装置に変えたイスラーム世界を見てきた。

この章では、さらに東へ移動する。

日本の伝統的な室内に足を踏み入れると、ヨーロッパともイスラーム世界とも、まるで違う空間がそこにある。

まず、靴を脱ぐ。足の裏に、イグサの柔らかな感触が伝わってくる──畳だ。

壁を見渡しても、石もレンガも見当たらない。柱と柱のあいだを仕切っているのは、木の格子に白い和紙を張った障子だ。向こう側がうっすらと透けて見える。光が紙を通してやわらかく拡散し、部屋全体をやさしく包んでいる。

部屋の隅には、金箔の上に松林が墨で描かれた屏風が立てられている。これは絵画であり、壁であり、家具でもある。

壁は動く。床は柔らかい。空間は「空(から)」であることで完成する。 ──西洋の室内とは根本的に異なるこの思想が、のちにフランク・ロイド・ライトやミース・ファン・デル・ローエを魅了し、20世紀のモダニズム建築に大きな影響を与えることになる。


椅子に座る人々、床に座る人々

そもそも、なぜ日本の室内はこれほど西洋と異なるのか。

その出発点は、「座り方」にある。

人類学者ゴードン・W・ヒューズの研究によれば、世界の少なくとも4分の1の人々が、深いしゃがみ姿勢を日常的にとって休息し、作業している。座り方のバリエーションは100種類以上もあるという。

大きく分ければ、世界の住文化は**「椅子に座る文化圏」「床に座る文化圏」**に分かれる。椅子文化は主にヨーロッパで発展し、床座文化は日本、韓国、中東、東南アジア、南アジアなどに広がっている。

この「座り方の違い」は、見た目以上に大きなインパクトを室内に与える。

椅子に座る文化では、家具は腰高になる。テーブルは75センチメートル前後、椅子は45センチメートル前後。部屋には「ダイニングルーム」「リビングルーム」「寝室」といった専用の部屋が必要になり、空間は用途別に固定される。

床に座る文化では、家具は膝の高さに収まる。ちゃぶ台は30センチメートル前後。敷物やクッションを片付ければ、食事の場が瞬時に寝室に変わる。部屋を用途別に固定する必要がない。ひとつの空間が、時間帯に応じてさまざまな機能を果たす。

つまり、椅子文化は空間を「固定」し、床座文化は空間を「可変」にする。 この原理が、日本の室内の本質を貫いている。


畳──床が「単位」になった

日本の床座文化を物理的に支えるのが、だ。

畳の歴史は古い。**奈良時代(710~794年)にはすでに薄い携帯式の敷物として存在していたが、当初は貴族が板の間の上に置いて座るための「贅沢品」だった。平安時代には寝具としても使われたが、部屋全体に敷き詰められるのは鎌倉・室町時代(1185~1573年)**以降、上流階級の邸宅においてのことだ。**江戸時代(1603~1868年)**になって標準化された厚い畳が庶民にまで広がり、農村部にまで普及したのは江戸後期から明治にかけてである。

畳の構造はシンプルだ。芯材(畳床)は伝統的にはワラを40センチメートル以上の厚さに圧縮し、5~6センチメートルの厚さにしたもの(現代は木チップやポリスチレンも使われる)。表面(畳表)は、麻や綿の縦糸にイグサ(灯心草)を織り込んだもの。縁(畳縁)は錦や無地の布で仕上げる。

注目すべきは、畳のサイズが地域によって異なることだ。

| 名称 | 寸法(cm) | 地域 | |------|------------|------| | 京間 | 95.5 × 191 | 京都・関西・西日本 | | 中京間 | 91 × 182 | 名古屋・東海地方 | | 江戸間 | 88 × 176 | 東京・関東・東北 | | 団地間 | 85 × 170 | 現代の集合住宅 |

この差は、設計の思想の違いを反映している。京都では畳のサイズに合わせて建物を設計した。東京では柱の間隔に合わせて畳を切った。土地の制約が厳しかった江戸のほうが、畳(つまり部屋)が小さくなった。結果として、同じ「6畳間」でも京間は団地間より約25パーセント広い

畳は単なる床材ではない。部屋の大きさを測る単位になった。4畳半は茶室、6畳は寝室、8畳は居間。不動産の面積単位**「坪」**は、畳2枚分の正方形(約3.3平方メートル)だ。床が面積の単位と結びつき、建築の設計体系そのものを規定する──こんな文化は、世界でも稀だ。

畳の敷き方にも厳密なルールがある。祝い事の場では、4枚の角が1点に集まらない**「祝儀敷き」(T字型の合わせ目をつくる)が基本だ。十字に目地が通る「不祝儀敷き」**は葬儀のときだけに使う。──床の敷き方ひとつに、吉凶の意味が込められている。


障子──紙が「光を変える」

日本の室内を決定的に西洋と分けているもうひとつの要素が、障子だ。

障子の原型が登場したのは平安時代後期(1100年代末~1200年代初め)。それまで布を張っていた間仕切りの枠に、半透明の和紙を張った**「明かり障子」が現れた。鎌倉時代に書院造**の発展とともに普及が進み、江戸時代には庶民の家にまで広がった。

障子の枠には杉や檜が使われ、まっすぐな木目を活かした精密な加工が施される。金属の釘は使わない。**組子(くみこ)**と呼ばれる細い格子は200種類以上の伝統的な文様を持ち、それぞれに吉祥の意味がある。東日本では横長の長方形が好まれ、京都では縦長が主流だ。

しかし障子の最大の特徴は、枠ではなくにある。

楮(こうぞ)の皮の繊維から漉かれた和紙は、厚さわずか1~2ミリメートル。向こう側がうっすら透けるほど薄いが、直射日光を柔らかく拡散させる。和紙を通った光は屈折し、まぶしさのないやわらかな照明となって部屋全体を満たす。読書には十分な明るさでありながら、まぶしくはない。

この「光を拡散する壁」は、西洋には存在しなかった。西洋の窓はガラスで、光を透過させるが拡散はしない。カーテンは光を遮断するが拡散はしない。和紙の障子だけが、「通しながら散らす」という独特の光の操作を実現した。

和紙は米糊や小麦糊で枠に貼り、乾燥後に霧吹きで水をかけるとピンと張る。伝統的には毎年12月に張り替えた。──障子は「消耗品としてのインテリア」であり、定期的に更新されることを前提につくられている。


襖──「描かれた壁」が動く

障子が「光を通す間仕切り」なら、**襖(ふすま)**は「光を遮る間仕切り」だ。

障子と違って両面に紙(あるいは布)が張られ、不透明で、しばしば絵が描かれている。安土桃山時代(1568~1600年)は襖絵の黄金時代で、狩野派が300年にわたって公式絵画を支配した。二条城、南禅寺、智積院の襖には、金箔の背景に大胆な松、桜、鷹、虎が描かれている。一枚の襖の制作に1年以上かかることもあった。

障子と襖の決定的な共通点は、どちらも**「動かせる壁」**だということだ。

溝に沿って左右にスライドさせるだけで、空間の仕切り方が変わる。襖を開ければ二間続きの大広間になり、閉じれば二つの独立した部屋になる。障子を開ければ外の庭と室内がひとつながりになり、閉じれば柔らかな光に満ちた閉じた空間が生まれる。

西洋の壁は「固定」だ。一度つくったら動かせない。部屋の用途を変えるには、壁を壊して建て直すしかない。

日本の間仕切りは「可動」だ。時間帯によって、用途によって、客の有無によって、空間のかたちが流動的に変わる。──この「壁を動かす」という発想が、のちに西洋のモダニズム建築家たちを驚かせることになる。


屏風──折りたためる絵画、持ち運べる壁

日本の「動くインテリア」の第三の柱が、**屏風(びょうぶ)**だ。

屏風のルーツは漢(前漢)王朝の中国(紀元前206年~紀元後220年)にあり、朝鮮半島を経由して7~8世紀の奈良時代に日本に伝わった。現存する日本最古の屏風は、正倉院に収蔵された8世紀の「鳥毛立女屏風」だ。

室町時代(1392~1568年)に、屏風の技術に決定的な革新が起きた。金属の蝶番に代えて紙の蝶番を使うようになったのだ。これにより、屏風は両方向に折りたためるようになり、連続した画面にまたがる壮大な絵画が可能になった。

標準的な屏風は六曲(6枚パネル)。竹の格子枠に何層もの和紙を張り、その上に金箔を押し、絵を描き、最後に漆塗りの枠をつける。安土桃山時代以降、金箔の背景が標準になったのは美的理由だけでなく、暗い城の室内を明るくする実用的な理由もあった。金は光を反射し、薄暗い空間に輝きをもたらす。

屏風の傑作をふたつ紹介しよう。

俵屋宗達「風神雷神図屏風」。 二曲一双の屏風に、左隻に風袋を抱えた風神、右隻に太鼓を叩く雷神が描かれている。二神のあいだの金色の空間が、視覚的な緊張を生む。──この「描かれていない空間」が作品の核心だ。この作品はのちに尾形光琳、酒井抱一に模写され、日本美術の象徴的存在になった。京都国立博物館所蔵、国宝。

長谷川等伯「松林図屏風」。 六曲一双、各隻は高さ156.8センチメートル、幅356センチメートル。霧にかすむ松林を水墨のみで描いた。「溌墨(はつぼく)」と呼ばれる雪舟ゆずりの技法で、墨の濃淡だけで奥行きと湿気と静寂を表現している。このスケールで樹木だけを主題にした最初の絵画とされる。東京国立博物館所蔵、国宝(1952年指定)。

屏風は、前章のタペストリー、前々章のアッシリアのレリーフと並べて考えると面白い。三者ともに「壁に物語を載せる」という行為だが、素材も方法もまったく違う。アッシリアは石に彫り、ヨーロッパは糸で織り、日本は紙に描いた。そしてアッシリアのレリーフは壁から動かせず、ヨーロッパのタペストリーは巻いて運べ、日本の屏風は折りたたんで運べる。


「間(ま)」── 何もないことが空間をつくる

畳、障子、襖、屏風──これらの具体的な装置の背後に、日本の室内を貫く独自の空間思想がある。**「間(ま)」**だ。

「間」という漢字は、「門」の下に「日(もともとは月)」を置いた形だ。扉の隙間から光が差し込んでいる。意味は「すきま」「あいだ」「休止」「間隔」。しかし、たんなる「空っぽ」ではない。

間は、「可能性に満ちた空(から)」だ。

仏教の「空(くう)」が存在論的な虚無であるのに対し、「間」は隣り合う要素を結びつけ、活性化する積極的な空間だ。「まだ果たされていない約束」、あるいは「音と音のあいだの沈黙が音楽をつくる」と表現されることもある。

建築において、「間」は柱と柱のあいだの寸法を指すと同時に、襖や縁側がつくり出す可変的な空間のあり方そのものを指す。床の間──掛け軸一幅か花器ひとつだけを飾るための凹み──は、「間」の思想を最もよく体現した装置だ。何もない空間を意図的につくることで、置かれたひとつのものが際立つ。

生け花では花のまわりの空間が花自体と同じくらい重要であり、能楽では静止と沈黙がゆっくりとした動きに力を与える。──「何もないことが空間をつくる」という逆説は、西洋の「装飾で空間を満たす」思想とは対極にある。


中国の椅子化──床座から椅子座への大転換

日本と同じ東アジアでも、中国は異なる道を歩んだ。

900年以前の中国は、日本と同様に床座文化だった。転換の始まりは魏晋南北朝時代(220~589年)。北方の遊牧民族から伝わった**「胡床(こしょう)」**──折りたたみ式の腰掛け──が中国に入ってきた。

**唐代(618~907年)**になると、足をぶらさげて座るスタイルがエリート層のあいだで流行し始めた。文献にもこの変化が記録されている。唐の太宗(599~649年)は高い台の上にひざまずいている姿で描かれているが、約1世紀後の玄宗(685~762年)は椅子に座っている。仏教の僧侶が使った禅椅子(虫や気を散らすものを避けるための座具)も、この変化を後押しした。

**宋代(960~1279年)**に至って、高い家具が全社会階層に浸透し、中国の「椅子化」は完了した。**明代(1368~1644年)**には、ほぞ組みによる分解可能な家具を発達させ、「官帽椅子」に代表される洗練された椅子文化を確立した。

ただし、中国北部では**「炕(カン)」**──中空の煉瓦製の台を下から加熱する暖房兼寝台──が床座の伝統を維持し続けた。椅子と床座が長期間にわたって共存していたことを示す好例だ。

日本は、この椅子化の波を受け入れなかった。中国から多くの文化を吸収しながらも、床座の伝統を守り続けた。この「選択的な受容」が、畳・障子・屏風という独自の室内文化を育むことになった。


日本の室内が西洋モダニズムに与えた衝撃

日本の室内の思想は、20世紀の西洋建築に深い影響を与えた。

フランク・ロイド・ライトは、1893年のシカゴ万博で日本の建築に初めて出会った。会場に建てられた鳳凰堂を模した「鳳凰殿」を訪れ、浮世絵の熱心な蒐集家になり、日本への渡航は7回、滞在期間は合計約3年に及んだ。1916年に設計を依頼された帝国ホテル(1923年9月1日──関東大震災の当日──に開業し、震災に耐え抜いた)は、日本建築と西洋建築の融合を250室の規模で試みた作品だ。

さらに衝撃的だったのは、ブルーノ・タウトの体験だ。

ナチスを逃れて1933年5月3日に日本に到着したタウトは、翌5月4日に桂離宮を訪れた。当時は一般に非公開で、国際的にもほとんど知られていなかった。タウトは涙を流した。「現代の最大の世界的奇跡」と呼び、日光東照宮の華美な装飾と対比して「日本の建築芸術は桂より高くはなれず、日光より低くは落ちない」と述べた。

タウトは日本滞在3年間に『ニッポン』『日本の家屋と生活』などを執筆し、桂離宮のスケッチ集を残した。この影響はル・コルビュジエやヴァルター・グロピウスにまで及んだ。グロピウスは1954年にコルビュジエへの書簡で「我々が戦ってきたことのすべてに、日本の古い文化のなかに並行するものがある」と書いている。

──障子の「透過する間仕切り」、畳の「モジュール化された床」、屏風の「可動式の壁」、そして「間」の思想。これらが西洋モダニズムの建築家たちに与えた影響は、第Ⅴ部の第28章で改めて詳しく取り上げる。


3つの壁の思想を振り返る

ここで、第Ⅲ部のここまでを振り返ろう。

第9章の西欧中世は、壁にを掛けた。寒さを防ぎ、音を吸い、空間を仕切り、持ち運んで「自分の空間」をつくった。

第10章のイスラーム世界は、壁を彫り、塗り、貼った。幾何学文様とカリグラフィーと光で、壁を天国の似姿に変えた。

第11章の日本は、壁を動かした。障子、襖、屏風──すべてが「可動の壁」であり、空間を流動的に変容させる装置だった。

3つの文化が、3つのまったく異なる方法で「壁」と向き合った。しかし共通していることがある。どの文化も、壁を「ただの壁」にしなかった。壁に意味を込め、壁を通して空間を操作し、壁によって人間の体験を変えた。

最後の第12章では、ルネサンス期のイタリアに向かう。

ここでは壁に「だまし絵」が施される。木象嵌で本棚や楽器や窓の外の風景が壁面に「描かれる」ストゥディオーロ。そして結婚という人生の転機が室内を一新するカッソーネ。──「個人の部屋」という、現代の私たちにとって当たり前の概念が、ここで初めて芽生える。