インテリアデザイン10万年史

洞窟の炉からスマートホームまで人類とインテリアの10万年の物語

第19章|「Less is More」の光と影

モダニズムは本当に住みやすかったのか


1937年10月11日。パリ郊外ポワシーに住むサヴォア夫人は、建築家ル・コルビュジエに手紙を書いた。

その文面は、6年間の忍耐の末に書かれたものだった。

「数えきれない要求の末、あなたはついに1929年に私たちのために建てたこの家が住めないことを認めました。直ちに住めるようにしてください。」

サヴォア邸──ル・コルビュジエの最高傑作、五原則の結晶、「建築的散策路」の発明。前の章で私たちが感嘆した、あの白い建物の話だ。

モダニズム建築は、室内空間を革命的に変えた。壁を自由にし、光を部屋の奥まで届け、内と外の境界を曖昧にした。──しかし、その革命的な空間に「住む」ということは、どういう体験だったのか。

この章では、革命の裏側を見る。


雨漏り、寒さ、そして肺炎──サヴォア邸の8年間

サヴォア邸のトラブルは、完成前から始まっていた。

1930年3月──まだ建物が完成する前のこと。サヴォア夫人はル・コルビュジエに最初の苦情を送った。「天窓がひどい音を立てて、悪天候のときに眠れません。」

1930年6月──「ガレージにまだ雨漏りがしています。」

そして1935年、夫人の手紙はこう続く。

「ホールに雨漏り。スロープにも雨漏り。ガレージの壁は完全にびしょ濡れです。バスルームにもまだ雨漏りがあり、悪天候のときには天窓から水が入って浸水します。庭師の部屋の壁も湿気で濡れています。」

問題は雨漏りだけではなかった。

大きなガラス面は光を採り込む代わりに、冬には容赦なく熱を奪った。夏には温室のように室内を灼熱にした。1935年の『タイム』誌はこう評している。「彼が好む広大なガラス面は部屋を温室に変えることがあり、平屋根は雨漏りし、平面は空間の無駄である。」

サヴォア夫妻は、大きなガラス面からの熱損失が夫人の健康を悪化させ、息子ロジェの肺炎を引き起こしたと信じた。

建築史家ティム・ベントンの言葉は的確だ。「毎年秋、最初の雨とともにサヴォア家から悲鳴が上がった。」

五原則の「水平連続窓」は部屋中に均一な光をもたらしたが、同時に断熱性能を犠牲にした。「屋上庭園」の平屋根は伝統的な勾配屋根よりも排水が難しく、防水処理の技術が追いつかなかった。「自由な平面」の大空間は暖房効率が悪かった。

理論は美しかった。しかし、1930年代の建設技術では、その理論を快適な住空間として実現する力がなかった。

サヴォア夫妻は結局、この家に住み続けることを断念した。第二次世界大戦中にはドイツ軍が占拠し、干し草倉庫として使用した。推定修復費8万ドルをサヴォア家は拒否し、二度と戻ることはなかった。

1959年、ポワシー市が収用し、取り壊しが予定された。しかしル・コルビュジエ自身を含む抗議キャンペーンにより救われ、1965年にフランス歴史的建造物に指定された──建築家の存命中にこの指定を受けた、きわめて稀な例だ。

住めなかった家が、文化財になった。この皮肉は、モダニズム建築の本質的な矛盾を象徴している。


「徘徊する動物」──ファンズワース邸のプライバシー問題

サヴォア邸の問題が「雨漏り」という技術的失敗だったとすれば、ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸の問題はもっと根深い。

イリノイ州プレーノ。シカゴの南西約90キロに位置するフォックス川のほとりに、ファンズワース邸は建っている。

1945年から1951年にかけて建設されたこの住宅は、ミースのアメリカにおける最初の個人住宅だ。施主はシカゴの腎臓専門医、エディス・ファンズワース博士

寸法を見てみよう。24メートル×9メートルの床スラブが、8本の白いI型鋼によって地面から1.5メートルの高さに浮いている。外壁は四面すべてがガラス。内部を仕切るのは、プリマヴェラ材(薄い色の広葉樹材)で囲まれたサービスコア──バスルーム2室、キッチン、暖炉──だけだ。

美しい。息をのむほど美しい。しかし──

四方がすべてガラスの家に住むとは、どういうことか。

ファンズワース博士の言葉を聞こう。

「四面ガラスのこの家では、徘徊する動物のように常に警戒しています。」

1953年の『ハウス・ビューティフル』誌に掲載されたこのインタビューで、彼女はさらにこう続けた。

「私は何か『意味ある』ことをしたかったのに、得たのはこの軽薄で偽りの洗練だけでした。」

プライバシーの問題は深刻だった。ミースは当初、カーテンを設けることすら拒否した。カーテンはガラスの純粋な透明性を損なうからだ。しかし住む人間にとっては、着替えるときも食事をするときも外から丸見えであることは、美学の問題ではなく日常の苦痛だった。

収納の問題もあった。ファンズワース博士はこう嘆いた。「ミースは『芸術とプロポーションの理由から』仕切りクローゼットの高さを5フィート(約152センチ)にしたがりました。でも、私は身長6フィート(約183センチ)なのよ。

住む人間の身長よりも「プロポーション」を優先する。──ミースにとっては空間の純粋さが最重要だったが、住む側にとっては日々の不便だった。


予算超過と法廷闘争

ファンズワース邸の問題は住み心地だけにとどまらない。

当初の予算は4万ドルだった。しかし最終的な建設費は7万4000ドル以上に膨らんだ。現在の貨幣価値に換算すると約74万ドル(約1億円)──予算の2倍近い超過だ。

1951年、ミースは未払いの建設費3,673ドルと設計料1万5000ドル、監督料1万2000ドルを求めてファンズワース博士を提訴した。博士は詐欺と過失を主張して反訴した。

結果、ミースが勝訴した。以後、二人は一度も言葉を交わすことはなかった。

建築家と施主の関係が法廷で終わる──これはモダニズム建築に特有の問題ではないかもしれない。しかし、この対立の根底には「建築家の理想」と「住む人間のニーズ」のあいだの、深い溝があった。


湿気と洪水──ガラスの家の物理的問題

ファンズワース邸のトラブルは、建築家と施主の衝突だけではなかった。建物そのものにも問題が山積していた。

屋根は雨漏りした。ボイラーからの暖房油が窓に付着した。ドアを開けなければ暖炉が正常に排煙しなかった。夏は換気が足りず、窓は完全に曇った。エアコンはなく、四面ガラスが温室効果を生んだ。

ファンズワース博士は『ニューズウィーク』誌にこう語った。「ワイパーが壊れた雨中の車にいるような気分です。

地元の配管工は、この家を**「mies-conception(ミース構想=誤った構想)」**と呼んだ。"misconception(誤解)"と"Mies"を掛けたジョークだ。

さらにこの家は、フォックス川の氾濫原に建てられていた。1995年の洪水で大規模な修復が必要になり、2008年の洪水ではワードローブが損傷した。地面から1.5メートル浮かせた設計は、洪水対策でもあったはずだが、大きな増水には耐えられなかった。

フランク・ロイド・ライトは『ハウス・ビューティフル』誌で、ファンズワース邸を名指しで攻撃した。「貧相なガラス箱建築」が「我々の伝統に共産主義的影を落としている」。同誌は1953年4月号でミースとインターナショナル・スタイルに対するキャンペーンを展開し、ファンズワース邸を「悪しきモダン建築」の典型例として取り上げた。


「装飾は犯罪」──ロースの爆弾発言を再考する

サヴォア邸の雨漏りもファンズワース邸のプライバシー問題も、「技術が追いつかなかった」あるいは「施主との相性が悪かった」として、個別の失敗に帰することもできる。

しかしモダニズムの室内が抱えていた問題は、もっと根本的なところにあった。それは**「装飾を排除する」という思想そのもの**の問題だ。

この思想の原点は、ウィーンの建築家アドルフ・ロースにある。

ロースの講演「装飾と犯罪(Ornament und Verbrechen)」は、モダニズムの聖典のように扱われてきた。1910年1月21日、ウィーンの「文学と音楽のためのアカデミー協会」で初めて発表された(しばしば1908年と誤記されるが、正確には1910年だ)。フランス語での初出版は1913年6月のパリの美術誌『レ・カイエ・ドジュルディ』、ドイツ語での初出版はさらに遅れて1929年10月24日の『フランクフルター・ツァイトゥング』紙だった。

ロースの主張は鮮烈だった。「今日、我々の文化水準で生きる者には、いかなる装飾もつくりえない。装飾からの自由は精神的強さの証である。」

ル・コルビュジエはこのエッセイを「ホメロス的浄化」と称賛した。バウハウスのデザイン哲学の基盤ともなった。

しかし──ここが重要なのだが──ロース自身は装飾の完全な排除を主張してはいなかった

彼が批判したのは「素材の性質を無視した、無意味な付加装飾」であり、「素材にふさわしい装飾」は認めていた。ロース自身の設計した住宅の内部には、大理石や木材の自然な紋様が積極的に使われている。プラハのミュラー邸(1930年)では、居間に高くなった座席エリアがあり、「淑女の小部屋」が螺旋階段でつながっている。外観は白い直方体だが、内部は豊かで親密だ。「建物は外では黙っているべきで、内部でのみ豊かさを明かすべきだ」──これがロースの信条だった。

しかし、ロースの思想は後世に過度に単純化された。「装飾=悪」という教条に転化し、白い壁と最小限の家具だけの室内を正当化する根拠として使われた。

ロースが「素材にふさわしい装飾は良い」と言っていたことは、忘れ去られた。


「狂人の家」──ユニテ・ダビタシオンの評判

モダニズムの「住みやすさ」問題は、個人邸だけにとどまらなかった。

マルセイユのユニテ・ダビタシオン(1947-1952年)は、ル・コルビュジエが理想とする集合住宅の実験だった。135メートル×24メートル×56メートルという巨大なコンクリートの直方体が、ピロティの上に載っている。337戸、8タイプ23バリエーションの住戸に1500人から1700人が暮らす。

7-8階には店舗やレストランが入る「ショッピング・ストリート」。屋上にはジム、ランニングトラック、浅いプール、幼稚園、野外劇場。ひとつの建物のなかに都市のすべてが収まっている──それがル・コルビュジエの構想だった。

地元住民はこの建物を「ラ・メゾン・デュ・ファダ(狂人の家)」と呼んだ。ここに住むと気が狂うという意味だ。

しかし実際の住人たちの声は、もう少し複雑だ。

住人のジャン=マルク・ドリュはこう語っている。「ユニテ・ダビタシオンは非常に力強い彫刻であり、芸術作品の中に住むという感覚は日常の現実です。」

ナタリー・ティシエは「最も驚くのは住戸内の明るさです。自然光がとても明るい」と評価した。

一方で、ホテルとして使われる住戸のレビューには「平均的なアメリカ人カップルには部屋がかろうじて収まる程度」という指摘があり、「今日の基準ではコンパクトなインテリア、いくつかの不便な配置」との声もある。

2016年、ユニテ・ダビタシオンはユネスコ世界遺産に登録された。──サヴォア邸と同じ構図だ。「住みにくい」と言われた建物が、文化的価値を認められて保存される。


「誰も好まない建物」──トム・ウルフの痛烈な批判

モダニズム建築に対する最も痛烈で、最もポピュラーな批判は、建築家からではなく、ジャーナリストから放たれた。

トム・ウルフ。アメリカの作家・ジャーナリスト。彼が1981年に出版した『バウハウスからマイホームまで(From Bauhaus to Our House)』は、モダニズム建築をユーモアと皮肉で徹底的にこき下ろした。

冒頭の一節がすでに辛辣だ。

「アメリカよ、美しきかな、広大な空に、琥珀色の穀物の波──これほど多くの富と権力を持つ人々が、これほど嫌悪する建築に金を払い、我慢してきた場所が、この祝福された国境の内側以外にあっただろうか?」

ウルフの論点は明快だった。モダニズム建築は「非ブルジョワ」を気取るスノビズムであり、アメリカの建築家たちは劣等感からヨーロッパの「白い神々」(グロピウスやミース)に平伏した。結果として生まれたのは**「誰も好まない建物」**──建築家が住む人間ではなく理論に従ったから、そうなった。

建築界の反応は圧倒的に否定的だった。

『タイム』誌のロバート・ヒューズは書いた。「トム・ウルフがモダン建築について知らないことは一冊の本を埋めるに十分だ。そして実際、薄い本ではあるがそうなった。」

『ニューヨーク・タイムズ』のポール・ゴールドバーガーは評した。「ウルフ氏の軽妙さは目を見張らせ続ける。しかし軽妙さは歴史でも建築批評でも社会批評でもない。」

ウルフの本は専門家には酷評されたが、一般読者には広く読まれた。モダニズム建築に対する「素人の違和感」を、ウルフは明快な言葉にしたのだ。白い壁と鉄とガラスの建物は確かにスタイリッシュだが、温かみがない。機能的かもしれないが、物語がない。──多くの人が薄々感じていたことを、ウルフは堂々と言い放った。


「Less is a Bore」──ポストモダニズムの産声

モダニズムへの不満は、建築家の内部からも噴き出していた。

1966年、アメリカの建築家ロバート・ヴェンチューリが一冊の本を出した。『建築の複雑性と対立性(Complexity and Contradiction in Architecture)』。建築史家ヴィンセント・スカリーはこの本を「ル・コルビュジエの『建築をめざして』以来、建築創造に関する最も重要な著作」と評した。

ヴェンチューリの最も有名な一言は、ミースへの明確な反駁だった。

「Less is a bore(少ないことは、退屈だ)。」

ミースの「Less is More」を文字通りひっくり返した。装飾を削ぎ落とすことは豊かさではなく退屈を生む、と。

1972年には、ヴェンチューリ、デニス・スコット・ブラウン、スティーヴン・アイゼナワーによる『ラスベガス(Learning from Las Vegas)』が出版された。ラスベガスのストリップ──巨大なネオンサイン、けばけばしいカジノ、テーマパーク的なホテル──を真面目に研究し、モダニズムの「ダック(表現的な形態)」に対して「装飾された小屋」という概念を提示した。「メインストリートはほぼ正しい」という挑発的な宣言は、モダニズムのエリート主義への正面からの批判だった。

そして1977年、建築批評家チャールズ・ジェンクスが『ポストモダン建築の言語』を出版し、モダニズムの「死亡日時」を宣言した。

1972年7月15日、午後3時32分。

その瞬間、セントルイスのプルーイット=アイゴー住宅団地が爆破解体された。

ミノル・ヤマサキ(後にワールドトレードセンターを設計する建築家)が設計したこの公営住宅団地は、モダニズムの理想を体現していた。均質な住棟、清潔な空間、合理的な配置。しかし入居から10年を待たず、犯罪と荒廃の巣窟と化していた。爆破解体の映像は全米に放映され、「モダニズム建築の失敗」の象徴になった。

ジェンクスはこう書いた。モダニズムは「英雄的でオリジナル」であることを求めたが、そこに住む人間は「醜くて普通」な日常を生きている。建築は「専門家」だけでなく「一般大衆」にも語りかけるべきだ──これが彼の言う「ダブル・コーディング」だ。


ミースの一言──「クライアントは子供のように」

ミース・ファン・デル・ローエは、施主との関係について、こう語ったとされる。

「クライアントは子供のように扱うべきだ。」

この言葉は、モダニズムの本質的な問題を端的に表している。

建築家は「正しい」空間を知っている。施主はそれがわからない。だから建築家が導いてやる必要がある。──この発想は、ル・コルビュジエの「住むための機械」にも、ミースの「Less is More」にも、ロースの「装飾と犯罪」にも通底している。

建築家が「良い空間」の定義を独占し、住む人間はそれに従うべきだという考え方。

もちろん、建築家の専門知識が不要だというわけではない。構造計算も断熱設計も照明計画も、専門家なしには成り立たない。しかし「どんな空間で、どう暮らしたいか」を決める権利は、最終的には住む人間にあるはずだ。

モダニズムの巨匠たちは、空間の美学と機能を極限まで追求した。その成果は巨大だ。自由な平面なしに、現代のオープンプラン・リビングは存在しない。水平連続窓なしに、現代のマンションの明るい室内は存在しない。素材の美学なしに、現代のミニマルなインテリアは存在しない。

しかし同時に、彼らは「人間は理論通りには暮らさない」という事実を軽視した。壁には物を飾りたい。窓にはカーテンを掛けたい。部屋には「自分の物語」を持ち込みたい。──その欲求を「文化的退行」として退けたところに、モダニズムの傲慢さがあった。


革命はつづく

ここまで3つの章で見てきたモダニズムの室内革命を、整理しよう。

革命の成果: 壁が構造から解放され、室内空間は自由になった。光は部屋中に行きわたり、内と外の境界は曖昧になった。素材そのものの美しさが空間をつくり、家具が空間を定義する新しい原理が生まれた。──これらの成果なしに、21世紀の私たちの室内は存在しない。

革命の代償: 理論の純粋さを追求するあまり、住む人間のニーズが軽視された。雨漏り、プライバシーの喪失、装飾への欲求の抑圧。「装飾は犯罪」という教条は、人間の「飾りたい」本能を否定した。

この矛盾は、やがてポストモダニズムという大きな反動を生む。ヴェンチューリの「Less is a bore」、ジェンクスの「モダニズムの死」宣言、そしてメンフィスグループの爆発(第5幕で詳しく取り上げる)──装飾と歴史と物語を室内に取り戻す運動が、20世紀後半に花開くことになる。

しかしそれは、もう少し先の話だ。

モダニズムの室内革命は、まだ終わっていない。壁を自由にした理論は、次に「教育」の現場で爆発する。ドイツの小さな街に、わずか14年で閉じられた学校があった。しかしその学校は、ドアハンドルから照明器具まで、すべてを自分たちの手でデザインした。

バウハウス。

第2幕で、その学校の物語を始めよう。