1919年にドイツのワイマールに開かれ、1933年に閉鎖された造形教育機関。転じて、そこで形づくられた造形の考え方を指す語としても使われる。
バウハウス
バウハウスとは、1919年にドイツのワイマールに設立され、1933年に閉鎖された造形教育機関のこと。転じて、その教育から生まれた造形の考え方や、それに連なる造形を指す語としても用いられる。名称はドイツ語で「建築の家」を意味する造語である。
解説
設立したのは建築家ヴァルター・グロピウスで、既存の美術学校と工芸学校を統合するかたちで開かれた。芸術家と職人を身分として分けず、教育の中心に工房での実技を置いたことがこの学校の骨格である。各工房には造形を受け持つ教師と技術を受け持つ職人が並んで立ち、学生は両方から学んだ。教師にはヴァシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ラースロー・モホイ=ナジらが名を連ねている。なお、創設者が建築家であったにもかかわらず、建築科が置かれたのは1927年になってからであった。
所在地は三度移っている。ワイマール期は1919年から1925年まで州立の学校であったが、州議会の政治的な変化により予算を失い、1925年に工業都市デッサウへ移って市立の教育機関となった。グロピウスの設計による校舎は1926年12月に開かれている。ナチ党が地方政治を握った1932年にベルリンへ移り、私立の学校として続いたが、家宅捜索と学生の逮捕が相次いだ末、1933年に学校側が自ら解散を決めた。
校長は三代で、グロピウスが1919年から1928年、ハンネス・マイヤーが1928年から1930年、ミース・ファン・デル・ローエが1930年から1933年を務めた。マイヤーは共産主義への傾倒を理由にデッサウ市から解任され、グロピウスの仲介でミースが後任となっている。ミースの時代には課程が学科として整理されて修業年限が短縮され、工房の比重、すなわち工業デザインの仕事の比重は下がった。
家具の分野で影響が大きいのはデッサウ期である。工業生産との接続が教育の課題として明確になり、スチールパイプを用いた椅子など、量産を前提とした試みがこの時期に集中した。マルセル・ブロイヤーのワシリーチェア(クラブチェアB3)は詰め物の塊をやめて帯状の張り材で身体を受ける構成をとり、チェスカ・チェア(B32)では後脚のないカンチレバー構造が採られている。工房での実験が製品の形にまで届いた例として、この二脚は分かりやすい。閉鎖後は教師と学生が各国へ渡り、教育の方法とともに考え方が広まっていった。
基本情報
| 正式名称 | Staatliches Bauhaus |
|---|---|
| 期間 | 1919年-1933年(14年) |
| 所在地 | ワイマール(1919-1925)、デッサウ(1925-1932)、ベルリン(1932-1933) |
| 校長 | グロピウス(1919-1928)、ハンネス・マイヤー(1928-1930)、ミース・ファン・デル・ローエ(1930-1933) |
語として使うときの注意
「バウハウス様式」と呼べる単一の様式が定義されていたわけではない。開校当初のヨハネス・イッテンが主導した時期は表現主義に近い性格をもち、その後モホイ=ナジが加わって合理主義・機能主義へ傾き、マイヤーの時期には社会的な要求が前面に出て、ミースの時期には建築と造形の議論へ寄った。14年のあいだに方向は複数回変わっている。したがって、ある造形を「バウハウス的」と述べる場合、どの時期を指しているのかによって内容が変わる。
Reference
- 14 Years of Bauhaus: A Chronology(Bauhaus-Archiv / Museum für Gestaltung)
- https://www.bauhaus.de/en/discover/article/14-years-of-bauhaus/
- Bauhaus(Britannica)
- https://www.britannica.com/topic/Bauhaus
- 1925-1932 デッサウ(NIPPON BAUHAUS SOCIETY)
- https://nipponbauhaus.jp/1925-1932/