概要
ハウ・ハイ・ザ・ムーンは、倉俣史朗が1986年に設計した肘掛け椅子である。座・背・肘掛けをエキスパンドメタルの面だけで構成し、内部に骨組みを持たない。クラブチェアの輪郭をそのまま残しながら、量感だけを取り去った椅子と言い表せる。
発表当初は日本の鉄工所で製作され、倉俣が手がけた空間に納められたほか、イデーが1997年まで販売した。海外ではヴィトラが2009年まで製造した。2019年からはクラマタデザイン事務所の監修のもと、ギャラリー田村ジョーが日本で復刻生産している。
特徴・コンセプト
形を残し、量感を消す
この椅子の輪郭は、厚い詰め物と低い背、深い肘掛けを持つ伝統的なクラブチェアに基づいている。倉俣が変えたのは形ではなく中身である。1987年に本人が記した設計の意図は、従来の椅子の形態はそのままにして、ボリュームを消し去り、物理的にも視覚的にも軽く、風が吹き抜けるものにする、というものだった(『家庭画報』1987年3月号)。見慣れた形を保つからこそ、そこに量感が無いことが際立つ。倉俣はこの椅子を「無重力願望の椅子」と呼んでいる。
骨組みを持たないエキスパンドメタル
素材に選ばれたエキスパンドメタルは、1枚の鋼板に千鳥状の切れ込みを入れて押し広げた網状の材で、当時は建築の下地や外構に使われる材料だった。針金を編んだ金網と違い、元は1枚の板であるため面としての剛性を持つ。倉俣はこの性質を利用し、スチールパイプの骨組みを一切置かずに、網の面そのものに荷重を受けさせた。
使われるのは3ミリロッドのスチール製エキスパンドメタルで、座面下には補強のためのエキスパンドメタルが入る。面と面の接合は、網の端部を一点ずつ接合して面を折り返すように連続させており、外からは継ぎ目が目立たない。仕上げはニッケルめっきが基本で、初期には銅めっきの仕様もつくられた。めっきによって網目が光を反射し、視点を動かすと表面の見え方が変わる。倉俣は網の椅子について、板から余分なものを消していく操作と、めっきの輝きで網目が増殖して見える操作とを同時に行っていると語っており(『CHANCE』1988年夏号)、削ぎ落としと装飾の両方をこの素材に見ていた。
座り心地への配慮
骨組みが無いため、座面の沈みは網の面の弾性だけで受ける。復刻版では座面が凹まないよう座面部分のエキスパンドメタルに厚手の材を用い、製造時に生じるバリをワイヤーブラシで丁寧に除去して、衣類を引っかけにくくしている。ヴィトラ版と日本製のモデルでは、座面下の支持構造の組み方が若干異なる。
エピソード
発表と初期の生産
倉俣がエキスパンドメタルを椅子に使ったのは、1985年の「シング・シング・シング」が最初である。ただしそちらはスチールパイプの枠が網を支える構造で、骨組みを持たない椅子はハウ・ハイ・ザ・ムーンで初めて実現した。1986年12月にパリのイヴ・ガストゥー・ギャラリーで発表され、翌1987年3月には東京・南青山のイデーで銅めっきのバージョンが展示された。製作は寺田鉄工所が担い、倉俣が設計した店舗や空間に納められた。1人掛けのほかに2人掛けも存在する。
ヴィトラによる製造
海外ではヴィトラがニッケルめっき仕上げで製造し、2009年まで生産を続けた。V&A博物館の記録では、ヴィトラの製造品は限定生産の位置づけで、1986〜87年にバーゼルで製作されたとある。ヴィトラ・デザイン・ミュージアムからニューヨーク近代美術館へ寄贈された個体もこのヴィトラ製である。
2019年の復刻
ヴィトラの生産終了後、2019年11月に東京で開かれた「復刻・倉俣史朗Ⅰ」展を機に、ギャラリー田村ジョーがクラマタデザイン事務所の監修のもとで復刻した。当時の鉄工所は既に存在しないため、2人掛け版などで長く倉俣作品に関わってきた鉄工所が製作を担当している。日本製のモデルはエキスパンドメタルの端部をろう付けでつなぐ点に特徴があり、めっきを取り巻く環境が変わったため、仕上げは当時の仕様に近いニッケルサテンとされた。この大きさの椅子にめっきを施せる工場は国内に少ない。
復刻版の寸法はW955×D825×H695mm、座面高330mmと、ヴィトラ版よりやや低い。エキスパンドメタルの規格が日本と海外で異なるためで、全工程が手作業のため個体ごとにも寸法の差がある。
名称の由来
名称はジャズのスタンダード曲「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」から採られている。倉俣は多くの家具にジャズの曲名を付けており、この椅子もその一つである。倉俣の自宅には、ジューン・クリスティが歌うスタン・ケントン楽団版の音源が残されている。
評価と影響
この椅子は一般に、建材を家具の主材に転用し、骨組みなしで座面を成立させた点で、1980年代の家具デザインを代表する作例の一つとして扱われている。V&A博物館はこの椅子を、クラブチェアの形と比例を保ちながら、素材の置き換えによって量感と重さを透明さに変えた作品と説明している。
影響は倉俣自身の空間にも及んだ。1987年の「イッセイ・ミヤケ・メン 渋谷西武」は、三宅一生がこの椅子を見て、椅子の内側のような空間を店にしたいと望んだことから生まれ、エキスパンドメタルの箱を二重に入れ子にした店内が実現した。倉俣にとってハウ・ハイ・ザ・ムーンは、椅子であると同時に、その後の空間の原型でもあった。
倉俣の椅子としては、アクリルに造花を封じ込めたミス・ブランチと並んで参照されることが多い。
収蔵
- ニューヨーク近代美術館(MoMA)— 収蔵番号 105.1989(ヴィトラ・デザイン財団寄贈)
- ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)— 収蔵番号 W.6-1990(ヴィトラ社ロンドン寄贈)
- ヒューストン美術館(MFAH)— 収蔵番号 2011.448
基本情報
| デザイナー | 倉俣史朗 |
|---|---|
| ブランド | ヴィトラ(〜2009年)/ギャラリー田村ジョー(2019年〜、クラマタデザイン事務所監修) |
| 発表年 | 1986年 |
| デザインの成立国 | 日本 |
| 主要素材 | スチール製エキスパンドメタル、ニッケルめっき仕上げ |
| サイズ | ヴィトラ版:W950×D832×H724mm、座面高350mm/復刻版:W955×D825×H695mm、座面高330mm |
倉俣史朗の設計思想や経歴について詳しくは倉俣史朗プロフィールページをご覧ください。
ヴィトラの歴史や他の製品について詳しくはヴィトラブランドページをご覧ください。
Reference
- Furniture | Shiro Kuramata Project - Gallery Tamura Joe
- https://www.shirokuramata-project.com/en/furniture
- Shiro Kuramata. How High the Moon Armchair. 1986 | MoMA
- https://www.moma.org/collection/works/2127
- How High the Moon | Kuramata, Shiro | V&A Explore The Collections
- https://collections.vam.ac.uk/item/O58651/
- "How High the Moon" Chair | The MFAH Collections
- https://emuseum.mfah.org/objects/107507/how-high-the-moon-chair
- 橋本啓子「倉俣史朗の宇宙」第8回 ハウ・ハイ・ザ・ムーン (1986) | ギャラリー ときの忘れもの
- https://tokinowasuremono.blog.jp/archives/53389028.html
- 倉俣史朗の名作が復刻。「How High the Moon」が現代の技術で蘇る | 美術手帖
- https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20811