概要

ブルノチェア(Brno Chair)は、20世紀モダニズムの巨匠ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)が1929年から1930年にかけてデザインした、カンチレバー構造を持つ革新的なアームチェアである。チェコスロバキア(現チェコ共和国)のブルノ市にある、UNESCO世界遺産にも登録されているトゥーゲントハット邸(Villa Tugendhat)のためにデザインされたこの椅子は、モダンデザインの歴史において最も重要な家具作品の一つとして認識されている。

ミースは、インテリアデザイナーのリリー・ライヒ(Lilly Reich)との協働により、建築空間と完全に調和する家具を創造した。ブルノチェアは、その洗練されたプロファイル、明快なライン、そして細部への徹底的な配慮により、20世紀デザインのアイコンとして確固たる地位を築いている。

特徴・コンセプト

ブルノチェアの最大の特徴は、その革新的なカンチレバー構造にある。一本の連続したスチールフレームが、背もたれの中央から座面前縁を通り、アームレストを形成しながら座面下部へと回り込むC字型の形状を描く。この構造により、視覚的な軽やかさと座った際の適度な弾力性を実現している。

デザインには二つのバージョンが存在する。一つはチューブラースチール(管状鋼)を使用したもの、もう一つはフラットバー(平鋼)を使用したものである。トゥーゲントハット邸では、チューブラー版がダイニングルームで24脚使用され、フラットバー版は主寝室に1脚のみ配置された。両バージョンとも、フレームと座面・背もたれの接続部分は完全に隠され、まるで座面が宙に浮いているかのような印象を与える。

ミースの設計哲学「Less is more(より少ないことは、より豊かなこと)」と「God is in the details(神は細部に宿る)」が、このデザインに完璧に体現されている。装飾的要素を一切排除し、構造と機能の純粋な表現を追求することで、時代を超越した美しさを獲得している。

エピソード

ブルノチェアの誕生は、建築史上最も重要な住宅建築の一つであるトゥーゲントハット邸の建設と密接に結びついている。1928年、裕福なユダヤ系繊維産業家であったフリッツ・トゥーゲントハットとグレーテ・トゥーゲントハット夫妻は、新居の設計をミースに依頼した。グレーテは後に、1969年の講演で、ミースがいかに建築の細部にまでこだわり、ドアハンドルに至るまで全てを自らデザインしたかを語っている。

興味深いことに、フラットバー版のブルノチェアは、当初トゥーゲントハット邸のために製作されたものの、その後長らく量産されることはなかった。転機が訪れたのは1958年、建築家フィリップ・ジョンソンがニューヨークのシーグラムビルディング内のフォーシーズンズレストランのためにKnoll社にフラットバー版の製造を依頼した時である。ジョンソンの要請により、ミースは座面にクッション性を増す改良を承認し、Knoll社は現在に至るまで両バージョンを製造し続けている。

第二次世界大戦中、トゥーゲントハット家はナチスの迫害から逃れるため1938年に亡命を余儀なくされ、邸宅はゲシュタポに接収された。その後、ソビエト軍の宿舎として使用されるなど、建物と家具は大きな損傷を受けた。しかし、1960年代から始まった修復作業により、ブルノチェアを含む家具デザインの重要性が再認識され、2001年にトゥーゲントハット邸はUNESCO世界遺産に登録された。

評価

ブルノチェアは、モダンデザイン史において最も影響力のある家具の一つとして、世界中の美術館や建築史家から高く評価されている。ニューヨーク近代美術館(MoMA)をはじめ、ヴィクトリア&アルバート博物館、シカゴ美術館など、世界の主要美術館がコレクションに収蔵している。

建築史家ピーター・ブレイクは著書『Master Builders』において、「ミースは超高層ビルからダイニングチェアに至るまで、あらゆるデザインにおいて各オブジェクトを本質的な要素にまで還元し、その後、息をのむような美しさと雄弁さのポイントまで各ディテールを洗練させた」と評している。トゥーゲントハット邸における窓の桟、暖房パイプ、照明器具、灰皿に至るまで、この蒸留のプロセスを反映していないものは何一つなかったという。

カンチレバー構造の椅子というアイデア自体は、マルト・シュタムやマルセル・ブロイヤーによって先行する試みがあったが、ミースはこの概念を最も洗練された形で実現した。ブルノチェアは、構造的な革新性と審美的な完成度の両立において、他の追随を許さない達成を示している。

受賞歴・コレクション

ブルノチェア自体に特定の受賞歴はないが、その文化的・歴史的重要性は、以下の事実によって証明されている:

  • ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久コレクションに1976年より収蔵
  • ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)に1950年代製造版を収蔵
  • シカゴ美術館のミース・ファン・デル・ローエ・アーカイブに設計図面を保管
  • メトロポリタン美術館のモダンデザインコレクションに収蔵
  • トゥーゲントハット邸のUNESCO世界遺産登録(2001年)における重要構成要素として認定

また、デザイナーのミース・ファン・デル・ローエ自身は、建築界のノーベル賞とも称されるRIBA王立ゴールドメダル(1959年)、アメリカ建築家協会ゴールドメダル(1960年)、アメリカ大統領自由勲章(1963年)など、数多くの栄誉を受けている。

基本情報

デザイナー ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)/ リリー・ライヒ(Lilly Reich)
デザイン年 1929-1930年
オリジナル製造 Berliner Metallgewerbe Joseph Müller(ドイツ)
現行製造 Knoll International(1948年より独占製造権取得)
モデル番号 MR50
寸法(チューブラー版) W577 × D572 × H800mm(座面高:438mm)
寸法(フラットバー版) W550 × D630 × H790mm(座面高:445mm / アーム高:665mm)
素材 フレーム:クロムメッキスチール(チューブラー/フラットバー)またはステンレススチール
張地:レザー(各種カラー)またはファブリック
構造 カンチレバー構造、一体成型フレーム
特記事項 KnollStudioロゴとミース・ファン・デル・ローエのサインがフレームに刻印