アントニーチェアは、20世紀を代表するフランスの構築家ジャン・プルーヴェが1954年にデザインした傑作ラウンジチェアである。正式名称を「フォトゥイユ・レジェ(Fauteuil Léger)No.356」とし、その優美な成形合板の曲線から「かもめ椅子(seagull chair)」という愛称でも呼ばれた。パリ近郊アントニーの大学都市に計画された学生寮のために構想されたこの椅子は、プルーヴェの設計哲学である構造的合理性と美的洗練の完璧な融合を体現している。
当時ヨーロッパ最大の学生寮であったアントニー大学都市の150室を対象とした家具コンペティションにおいて、ジャン・プルーヴェ率いるアトリエ・ジャン・プルーヴェは、シャルロット・ペリアン、アンドレ・ル・スタン、マルタ・ヴィリジェと協力し、見事に勝利を収めた。この成功により製造が開始されたアントニーチェアは、当初の学生寮という用途を超え、オフィス、待合室、リビングルームなど多様な空間で愛用される普遍的な家具となった。
特徴・コンセプト
構造的革新性
アントニーチェアの最大の特徴は、その構造的な独創性にある。熱成形されたブナ材合板による一体型のシートシェルは、背もたれから座面にかけて緩やかな曲線を描き、人体の自然な姿勢に寄り添うよう設計されている。この成形合板を支えるL字型のスチールフレームは、コンパス・ディレクションテーブルと同様の構造原理を採用しており、2つのブラケットが座面の曲線に沿って配置されている。
注目すべきは、このブラケットと座面との間に意図的に設けられた微細な隙間である。座面を両サイドから浮かせるように支える構造により、絶妙な弾力性とクッション性が生まれ、長時間の着座においても快適さが保たれる。金属チューブの脚部は、側面から見ると三角形を形成し、全体の安定性を最小限の素材で最大限に確保している。この経済的かつ合理的なアプローチは、プルーヴェが追求した「必要最小限の素材で最大の強度と美しさを実現する」という設計思想を見事に体現している。
素材と仕上げ
オリジナルのアントニーチェアは、成形ブナ材合板のシートとエナメル塗装を施したスチールフレームで構成された。合板の滑らかな曲面は、プルーヴェが航空機や自動車の製造技術から学んだ成形技術の応用であり、木材でありながら金属のような精密さと強度を実現している。
2025年にヴィトラから発売された限定版では、ヨーロッパ産パイン材のシートシェルにナチュラルワックス仕上げが施され、金属フレーム部にはプルーヴェが生前に愛用した「ルージュ・コルセール(Rouge Corsaire)」と呼ばれる海賊の赤色のパウダーコート仕上げが採用された。この色彩の選択は、プルーヴェのオリジナルデザインへの敬意を表すとともに、時代を超えた美意識の継承を示している。
デザイン哲学の体現
プルーヴェは自らを「構築家(Constructor)」と称し、デザインと製造を分離することなく、設計から生産まで一貫してプロセスに関わることを信条とした。アントニーチェアは、この哲学の結晶である。装飾を排し、構造そのものが美を生み出すというモダニズムの理想を、実用的かつ経済的な解決策として具現化している。
また、学生寮という大量生産を前提としたプロジェクトにおいて、コストパフォーマンスと品質の両立を追求した点も重要である。プルーヴェはより経済的な「軽量イージーチェア」の開発を目指し、以前に設計したコンフェレンスNo.355モデルよりも製造効率の高い構造を考案した。この実用主義と理想主義の見事な調和が、アントニーチェアを真の名作たらしめている。
エピソード
コンペティション勝利の背景
1955年初頭、フランスのデザイナー団体「ユニオン・デ・アルティスト・モデルヌ(Union des Artistes Modernes)」の支援のもと、アントニー大学都市の学生寮家具デザインコンペティションが開催された。この競技会は、デザイナーと家具製造者がチームを組むことを条件としていた。アトリエ・ジャン・プルーヴェは、シャルロット・ペリアンという20世紀を代表する女性デザイナーとの協働により、予選を通過し、最終的に150室の家具を手掛ける栄誉を獲得した。
この勝利は、プルーヴェの技術的卓越性とペリアンの空間デザインへの深い理解が見事に融合した成果であった。両者は1950年代を通じて密接に協力し、アントニーチェアのみならず、カフェテリアやレジャースペース用の家具シリーズも開発した。このコラボレーションは、機能主義と人間工学の調和という、戦後フランスデザインの新たな地平を切り開いた。
ヴィトラとの運命的な出会い
アントニーチェアとヴィトラの関係は、運命的な出会いから始まった。1980年代、ヴィトラの現名誉会長ロルフ・フェルバウムがパリを訪れた際、偶然目にしたヴィンテージのアントニーチェアに深く魅了された。この椅子は、フェルバウムにとってプルーヴェ作品の蒐集と研究を開始する契機となり、やがて1984年にヴィトラデザインミュージアムのコレクションに最初に加えられた椅子という栄誉を得た。
現在、7,000点を超える同ミュージアムの膨大な家具コレクションの中でも、アントニーチェアはひときわ特別な存在として位置づけられている。2000年、ヴィトラはプルーヴェファミリーとの協議を開始し、全プルーヴェ製品の復刻および製造販売権を獲得した。2002年以降、ヴィトラはプルーヴェの名作を継続的に製造販売し、その遺産を現代に伝え続けている。
限定版の復活
2012年に生産が終了したアントニーチェアは、コレクターズアイテムとして市場での希少価値が高まり続けた。そして2025年、ヴィトラは期間限定でアントニーチェアを再び世に送り出した。この限定版には、プルーヴェが実際に使用していたルージュ・コルセール色のフレームとヨーロッパ産パイン材のシートが採用され、すべての製品にシリアルナンバーが付与された。
ヴィトラのチーフデザインオフィサーであるクリスチャン・グロッセンは「ジャン・プルーヴェのデザインは、技術的な合理性とデザインとしての美しさが絶妙に調和している。アントニーの限定版は、彼の代表的なデザインのひとつを通じて、その功績に敬意を表するものである」と語っている。この復活は、プルーヴェの遺産が今なお世界中のデザイン愛好家を魅了し続けていることの証左といえよう。
評価
アントニーチェアは、ジャン・プルーヴェの後期作品の中でも特に重要な位置を占める傑作として、国際的に高い評価を受けている。ニューヨーク近代美術館(MoMA)やメトロポリタン美術館といった世界屈指の美術館に永久コレクションとして所蔵され、20世紀デザイン史における不朽の名作としての地位を確立している。
この椅子の卓越性は、構造的合理性と美的洗練の完璧な統合にある。プルーヴェの設計思想である「形態は機能に従う」という原則を体現しながらも、単なる機能主義に留まらず、優雅さと詩的な美しさを備えている点が、批評家や研究者から特に高く評価されている。また、大量生産を前提としながら、個々の作品が芸術的価値を保持しているという点も、産業デザインの理想的な在り方として称賛されている。
市場においても、アントニーチェアは極めて高い評価を得ている。2016年のライト・オークションでは、オリジナルのアントニーチェアNo.356が27,500ドルで落札されるなど、コレクターズアイテムとしての価値も証明されている。ヴィトラによる復刻版が2012年に生産終了となって以降、その希少性はさらに高まり、正規品のヴィンテージは市場にほとんど出回らない状況が続いている。日本でも、ZOZOTOWNの創業者前澤友作氏やL'Arc〜en〜CielのTETSUYA氏、海外ではブラッド・ピットやマーク・ジェイコブスなど、著名なコレクターがプルーヴェ作品を蒐集していることが知られており、その文化的影響力の大きさを物語っている。
受賞歴
アントニーチェア自体が特定のデザイン賞を受賞した記録は文献上確認されていないが、このデザインを生み出したアントニー大学都市の家具プロジェクトにおけるコンペティション勝利は、その優秀性を証明する重要な栄誉である。また、ヴィトラデザインミュージアムのコレクションに最初に加えられた椅子として選出されたことは、デザイン界における最高峰の評価のひとつといえる。
ジャン・プルーヴェ自身は、生涯にわたる功績により数々の栄誉を受けており、その代表作であるアントニーチェアもまた、プルーヴェの遺産の重要な一部として位置づけられている。2006年にヴィトラデザインミュージアムで開催された展覧会「Jean Prouvé: The Poetics of the Technical Object(ジャン・プルーヴェ:技術的対象の詩学)」において、アントニーチェアは中心的な展示作品のひとつとして紹介され、国際的な注目を集めた。
基本情報
| デザイナー | ジャン・プルーヴェ(Jean Prouvé) |
|---|---|
| デザイン年 | 1954年 |
| 分類 | ラウンジチェア |
| 正式名称 | フォトゥイユ・レジェ(Fauteuil Léger)No.356 |
| 別名 | アントニーチェア、かもめ椅子(Seagull Chair) |
| オリジナル製造 | アトリエ・ジャン・プルーヴェ(Ateliers Jean Prouvé) |
| 復刻版製造 | ヴィトラ(Vitra)/ 2002年〜2012年、2025年限定版 |
| 主な素材 | 成形ブナ材合板(オリジナル)、パイン材(2025年限定版)、エナメル塗装スチール、スチールチューブ |
| サイズ | 高さ約87cm × 幅約51cm × 奥行約70cm |
| 主なコレクション | ニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、ヴィトラデザインミュージアム |