セレーネチェアは、イタリアを代表する建築家・デザイナーであるヴィコ・マジストレッティが1960年代後半に設計し、アルテミデ社が製造した革新的なスタッキングチェアである。わずか3mm厚のガラス繊維強化ポリエステル樹脂(レグラー)を圧縮成形により一体成形するという画期的な製法で誕生した本作は、工業デザイン史における一つの到達点として高く評価されている。

ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ヴィクトリア&アルバート博物館、ヴィトラ・デザイン・ミュージアムといった世界有数のデザインミュージアムに永久収蔵されており、20世紀後半のイタリアンデザインを象徴する作品として、その歴史的意義は揺るぎないものとなっている。

特徴・コンセプト

セレーネチェアの最大の特徴は、脚部に採用されたS字断面構造にある。マジストレッティはこの独創的な形状により、わずか3mm厚という極薄のシート材に驚異的な強度と安定性を付与することに成功した。従来の木製椅子と同等のスリムな脚部シルエットを実現しながら、プラスチック素材特有の「象の足」のような野暮ったさを完全に排除したのである。

マジストレッティ自身は次のように語っている。「座面と背もたれはシンプルな曲面です。私にとって脚こそがこの作品の真のイメージでした。一般的な木製椅子の脚と同様のスリムなボリュームを実現したかったのです。私は3mm厚のシンプルなシートに、単純ながら非常に強固なS字断面を採用することでこれを解決しました」

革新的製造技術

セレーネチェアは、プリプレグシート(樹脂を含浸させたガラス繊維シート)を一回の圧縮成形工程で椅子全体へと成形する画期的な製法により生産された。量産体制下では「5分に1脚」という驚異的なペースで製造が可能となり、当時としては革命的な生産効率を実現した。脚部に装着するゴム製の足キャップを除き、椅子本体は完全な一体成形品である。

機能性と汎用性

軽量で持ち運びが容易なセレーネチェアは、優れたスタッキング性能を備え、屋内外を問わず使用可能である。弾力性のある背もたれは快適な座り心地を提供し、光沢のある滑らかな仕上げは射出成形を思わせる美しさを持ちながら、実際には圧縮成形によって実現されている。発売当初はホワイト、レッド、ブラックの3色展開で、1970年にはオレンジが追加された。1984年のロサンゼルスオリンピックに際しては、イエロー、ライトブルー、ピンクといったパステルカラーが導入され、ポストモダン時代の美学にも対応した。

エピソード

セレーネチェアの構想は1961年に始まったが、アルテミデ社の技術者やモデルメーカーとの協働による試行錯誤を経て、最初の生産モデルが完成したのは1969年のことであった。この約8年間にわたる開発期間は、革新的な製品を生み出すための粘り強い探求の証である。

1967年、マジストレッティはセレーネチェアの製造原理について特許を取得。翌1968年には、ニューヨークのハルマークギャラリーで開催されたイタリアンデザイン展に出展され、同年のミラノ・トリエンナーレでもホワイトモデルが発表された。国際的な舞台での披露は大きな反響を呼び、以後数十年にわたりアメリカから日本まで世界中で愛される名作となった。

マジストレッティは、このS字断面構造の着想について「これは図面では描けません。描こうとすれば、少なくとも100枚の断面図を描かねばならないでしょう」と述べている。この言葉は、セレーネチェアが単なる製図上の設計ではなく、素材と製法を熟知した上での立体的思考から生まれた作品であることを物語っている。なお、このS字断面構造は、先行するキメラランプ(自立型メタクリレートシート)やデメトリオテーブルの脚部にも採用されていた技術であり、マジストレッティのデザイン哲学が一貫して追求されていたことがうかがえる。

評価

セレーネチェアは、1960年代における家具製作の素材実験を代表する作品として位置づけられている。当時のデザイナーや製造業者たちは、より安価で迅速に製造でき、なおかつスタッキング可能な椅子を一体成形で実現することを競っていた。ヴィクトリア&アルバート博物館は、本作をその両方の目標を達成した「極めて成功した例」と評している。

「控えめなエレガンス」と「新技術を用いた本質的な表現力」の見事な融合として称えられるセレーネチェアは、機能主義と反機能主義の交代と共存を体現した作品とも評されている。プラスチック素材の可能性を最大限に引き出しながらも、伝統的な木製椅子の美学を尊重したマジストレッティの姿勢は、モダニズムとポストモダニズムの架け橋となる独自のデザイン哲学を示している。

受賞歴・収蔵

受賞

1970年
ウィーンサロン 金賞
1970年
コンパッソ・ドーロ 佳作(Honourable Mention)

主要収蔵機関

  • ニューヨーク近代美術館(MoMA)パーマネントコレクション
  • ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)
  • ヴィトラ・デザイン・ミュージアム
  • イェール大学アートギャラリー
  • フレデリック・パーカー・コレクション

基本情報

名称 セレーネチェア / Selene Chair
デザイナー ヴィコ・マジストレッティ / Vico Magistretti(1920-2006)
製造 アルテミデ / Artemide
発表年 1968年(ミラノ・トリエンナーレ)
生産開始 1969年
素材 ガラス繊維強化ポリエステル樹脂(レグラー / Reglar)
製法 圧縮成形(一体成形)
寸法 高さ:約74.9cm / 座面高:約47cm / 幅:約47cm / 奥行:約50cm
特許 1967年取得(特許番号:793415)
カラー展開 ホワイト、レッド、ブラック、オレンジ、グリーン、イエロー、ライトブルー、ピンク 他
原産国 イタリア