マスターズチェアは、デザイン界の巨匠フィリップ・スタルクと気鋭のデザイナー、ウジェニ・キトレの協働によって生み出された、デザイン史への壮大なオマージュである。2010年にイタリアの名門家具ブランド、カルテルより発表されたこの椅子は、20世紀モダンデザインを代表する3つの名作チェアのエッセンスを一つに融合させるという、大胆かつ革新的なコンセプトのもとに創造された。

アルネ・ヤコブセンの「セブンチェア」、エーロ・サーリネンの「チューリップアームチェア」、そしてチャールズ&レイ・イームズの「エッフェルチェア」。これら3つの象徴的なデザインのシルエットが、有機的な曲線を描きながら絡み合い、背もたれからアームレストへと流れるように連なる構造は、見る者に強い印象を与える。プラスチックの一体成型という現代技術を駆使しながら、デザインの歴史的文脈を巧みに織り込んだこの作品は、単なる機能的家具を超えた、デザインに関する深い思索を体現している。

デザインコンセプト

マスターズチェアの根底にあるのは、デザインの歴史に対する深い敬意と、過去の巨匠たちへの謙虚なオマージュである。スタルク自身が「私たちは今日生まれたわけではない。偉大な先人たちがいた。マスターズチェアは、3人の偉大な巨匠と3つの傑作の系譜を想起させる。それらが一つになることで、新しい製品、新しいプロジェクト、私たちの新しい社会を映し出す」と語るように、この椅子は単なる形態的な引用ではなく、デザイン史における継承と革新の関係性についての本質的な問いかけを含んでいる。

3つの名作チェアの選定には、明確な意図が込められている。ヤコブセンのセブンチェアは、北欧デザインの美学と成型合板技術の完成度を代表し、サーリネンのチューリップアームチェアは、構造と彫刻的フォルムの統合を示し、イームズのエッフェルチェアは、工業生産とモダニズム理念の民主化を象徴する。これら3つの椅子は、それぞれが20世紀デザインにおける重要な到達点であり、マスターズチェアはこれらの精神を現代に継承する試みとして位置づけられる。

スタルクとキトレは、単なる形態の模倣ではなく、各デザインの本質的な特徴をアウトラインとして抽出し、それらを重ね合わせることで新たな視覚言語を創出した。この手法は、デザイン史の中で何かを新たに創造することの困難さと、先人の業績の上に立つことの重要性を透明化するものであり、同時に皮肉とユーモアを含んだ知的な戯れでもある。

特徴

構造と素材

マスターズチェアは、改質ポリプロピレンを用いた一体成型によって製造される。背もたれからアームレスト、座面へと連続する構造は、プラスチック成型技術の可能性を最大限に引き出したものであり、金属や木材では実現し得ない複雑な曲線と軽量性を両立している。細く伸びる4本の脚は視覚的な軽快さを生み出し、空間に圧迫感を与えることなく存在する。

座面は広めに設計され、体圧を面で分散させる緩やかな曲面を持つ。アームレストとの組み合わせにより、荷重の局所集中を防ぎ、長時間の使用においても快適性を維持する。背もたれの立ち上がりは骨盤を適度に支持し、座位の安定性を確保している。この人間工学的配慮は、視覚的な美しさと実用性の両立というスタルクの一貫した哲学を反映している。

機能性と汎用性

マスターズチェアの実用的特性は、その普遍的な成功の重要な要因である。重量約4キログラムという軽量性により、容易な移動が可能であり、4脚までスタッキングできる機能は、空間効率を重視する現代生活に適応している。また、屋内外双方での使用に耐える耐候性を備え、住宅のダイニングルームから商業施設のカフェテリアまで、多様な環境で活用されている。

カラーバリエーションの豊富さも特筆すべき点である。定番のブラック、ホワイト、グレーから、鮮やかなオレンジ、グリーン、マスタードイエローまで、幅広い色彩展開により、様々なインテリアスタイルに調和する。さらに、メタリック仕上げのバージョンは、プラスチック素材に高級感と独特の質感を付与し、素材の可能性を拡張している。

視覚的透明性

背もたれのデザインにおいて特に重要なのは、実体と空隙のバランスである。3つの椅子のアウトラインが重なり合う構造により、視線が抜け、光が通過する。この透明性は、複数の椅子を配置した際にも空間に開放感をもたらし、視覚的な軽やかさを保持する。密閉された背もたれではなく、線の集合体として構成されることで、椅子は空間の一部として溶け込みながらも、その存在感を主張する絶妙なバランスを実現している。

エピソード

フィリップ・スタルクとウジェニ・キトレの出会いは、2001年、地中海に浮かぶスペイン領フォルメンテーラ島においてであった。バルセロナで建築とインテリアデザインを学んだキトレは、当時すでに国際的な名声を確立していたスタルクと邂逅し、以後、長期にわたる創造的パートナーシップを築くこととなる。両者の協働は、スタルクの大胆な概念とキトレの精緻な造形感覚が融合し、数多くの革新的なプロダクトを生み出してきた。

マスターズチェアの開発過程において、スタルクとキトレは、デザイン史における位置づけという哲学的問題に取り組んだ。現代のデザイナーが、すでに多くの傑作が存在する椅子というカテゴリーにおいて、いかにして新たな価値を創造できるのか。この問いに対する彼らの答えは、過去の偉業を否定するのではなく、それを明示的に引用し、再解釈することであった。この姿勢は、デザインにおける歴史意識と現代性の関係について、重要な示唆を提供している。

カルテルという製造パートナーの選択も、このプロジェクトにとって本質的であった。1949年の創業以来、プラスチック素材を用いた革新的な家具開発の先駆者であるカルテルは、スタルクとの長年の協力関係を通じて、多くの象徴的な作品を世に送り出してきた。マスターズチェアは、カルテルの技術力とスタルクのビジョンが融合した、まさに「メイド・イン・イタリー」の精神を体現する作品となった。

評価と影響

マスターズチェアは発表直後から、デザイン界と市場の双方において高い評価を獲得した。2010年には、シカゴ建築デザイン博物館が主催する権威ある「グッドデザイン賞」を受賞し、その革新性と優れたデザイン品質が認められた。さらに2013年には、国際的に名高い「レッドドット・デザイン賞」を受賞し、デザインの卓越性が国際的に承認されることとなった。

商業的成功も顕著であり、世界中の住宅、オフィス、レストラン、カフェ、公共施設において広く採用されている。この普及は、スタルクが一貫して追求してきた「民主的デザイン」の理念、すなわち優れたデザインを可能な限り多くの人々に手の届く形で提供するという哲学の実現を示している。

批評的には、マスターズチェアは、ポストモダン的な引用の手法を、単なる様式的な遊びではなく、デザイン史への真摯な対話として昇華させた点が評価されている。過去の名作への敬意を保ちながら、同時に独自の美学と機能性を確立したこの椅子は、21世紀のデザインにおける歴史意識のあり方について、重要な参照点を提供し続けている。

受賞歴

2010年
グッドデザイン賞(Good Design Award)- シカゴ建築デザイン博物館(Chicago Athenaeum - Museum of Architecture and Design)
2013年
レッドドット・デザイン賞(Red Dot Design Award)

基本情報

製品名 マスターズチェア(Masters Chair)
デザイナー フィリップ・スタルク(Philippe Starck)、ウジェニ・キトレ(Eugeni Quitllet)
メーカー カルテル(Kartell)
発表年 2010年
分類 ダイニングチェア/アームチェア
素材 改質ポリプロピレン(PMMA)
サイズ 幅535mm × 奥行550mm × 高さ830mm × 座面高460mm
重量 約4kg
機能 スタッカブル(4脚まで)、屋内外使用可能
生産国 イタリア