J39 ピープルズチェアは、1947年にデンマークの家具デザイナー、ボーエ・モーエンセンによって発表された木製ダイニングチェアである。デンマーク生活協同組合(FDB Møbler)のために創作されたこの椅子は、「人民の椅子(The People's Chair)」という愛称で親しまれ、発表以来一度も生産が途絶えることなく、現在に至るまでFredericia Furnitureによって製造され続けている、デンマークモダンデザインを代表する名作である。
ソリッドウッドのフレームと手織りのペーパーコードの座面という簡素な構成ながら、緻密に計算された比例と卓越した座り心地を実現し、私邸から公共空間まであらゆる場所で使用される普遍的な椅子として、デンマーク国内はもとより世界中で高い評価を受けている。
デザインの背景
J39が誕生した背景には、第二次世界大戦後のデンマーク社会における家具の民主化という時代的要請があった。1942年、当時28歳の若きモーエンセンは、デンマーク生活協同組合(FDB)の家具部門の主任デザイナーに任命された。FDBは、良質な生活用品を手頃な価格で一般市民に提供することを目的とした組織であり、モーエンセンに課せられた使命は、「シンプルで実用的、かつ美しく機能的な家具を、誰もが購入できる価格で提供する」というものであった。
戦後、都市部への人口集中に伴い集合住宅が増加する中、コンパクトで丈夫、そして誰もが使いやすい椅子が求められていた。モーエンセンは約5年の歳月をかけてこの課題に取り組み、1947年にJ39を完成させた。当時流行していた輸入素材を使わず、デンマークで豊富に採取できるビーチ材やオーク材を使用し、直線的な木材を多用することで加工の手間を省き、コストを抑えながら高品質を実現した。
特徴・コンセプト
デザインの本質
J39の最大の特徴は、「必要最低限の要素で構成された極めてシンプルなデザイン」にある。過度な装飾を排し、機能と美を高次元で融合させたこの椅子は、師であるコーア・クリントの教えと、18〜19世紀のアメリカン・シェーカースタイルの家具からインスピレーションを得ている。特にクリントが1936年にデザインしたベツレヘム教会のチャーチチェアを簡略化し、背もたれを4本の横桟から1本の緩やかな曲線を描く背板へと変更、後脚も曲線から完全な垂直へと改めることで、より純粋で簡潔な表現を実現した。
モーエンセンのデザイン哲学は、視覚的な明快さと最小限の装飾にあった。彼は人間の身体寸法と機能性を最優先に考え、流行に左右されない普遍的な美しさを追求した。J39は、そうした信念が結実した作品であり、直線的なラインには揺るぎない誠実さと力強さが宿っている。
構造と素材
椅子の構造は、ソリッドウッド(ビーチ材またはオーク材)のフレームと、手織りのペーパーコードによる座面で構成される。背もたれは積層された木材を成型したもので、緩やかな曲線が身体を優しく受け止める。座面のペーパーコードは、適度なしなりによって身体を支え、長時間の着座でも快適性を保つ。
モーエンセンは意図的に手作業を必要とするペーパーコードの座面を選択した。これは戦後のデンマークにおいて雇用を創出するための配慮であり、庶民が椅子づくりに携わり、歩合制により賃金を得られる仕組みを構築した。このように、J39は単なる家具としての役割を超え、社会貢献を実現する椅子でもあった。
寸法と比例の妙
J39の寸法は、幅48cm、奥行43cm、高さ77cm、座面高46cmという緻密に計算されたプロポーションを持つ。背もたれが描く曲線は円錐のカーブを描き、背もたれの貫を延長すると遥か後方で交わるように傾斜が設けられている。こうした細部への配慮により、一見単純に見えるデザインの中に、卓越した工学的精密さが宿っている。
エピソード
木製のピンとダボから生まれた名作
J39誕生の興味深いエピソードとして、工場に余っていた木製のピンとダボがきっかけとなった可能性が指摘されている。モーエンセンはこうした既存の材料を活用し、無駄を省きながら優れたデザインを生み出すという、実践的かつ持続可能なアプローチを体現した。
ウェグナーとの友情
モーエンセンは、1936年にコペンハーゲン美術工芸学校で出会ったハンス・J・ウェグナーと生涯にわたる友人関係を築いた。二人はデンマークモダンデザインを代表する巨匠として、時に協力し、時に競い合いながら、互いを高め合った。モーエンセンとウェグナーは共にFDBのために家具をデザインし、「The People's Collection」を形成した。1948年には、ニューヨーク近代美術館(MoMA)主催の国際コンペティション「Low-Cost Furniture」に共同で参加している。
モーエンセン自邸での使用
モーエンセンは、1969年に完成した自身のカントリーハウス(デンマーク、リンデルップ)において、J39の座面にキャンバス地を使用したバリエーションを制作し、自ら愛用していた。このカントリーハウスは、フィヨルドを望む野生的な風景の中に建てられ、自然素材と穏やかな色調に満ちた空間であった。そこにあったJ39は、彼のデザイン哲学を体現する生きた証であった。
75周年記念
2022年、J39は誕生75周年を迎え、Fredericia Furnitureはオリジナルバージョンと同様に、持続可能な手織りのセッジグラス(イグサ科の植物)を座面に使用した特別版を発表した。また、2025年5月には、モーエンセンが自邸で試みたキャンバスシートを公式に製品化したアップホルスター版が発表され、新たな章が加えられた。
破損したJ39からの再生プロジェクト
2021年、日本のスタジオAtMa Inc.は、倉庫で発見された破損したJ39の部品を再構成し、「J39.5」という新しいコレクションを創作した。脚が欠けたり背もたれにひびが入った椅子を、元の状態に修復するのではなく、その堅牢な構造と素材の質の高さを活かして新しい座具へと生まれ変わらせるプロジェクトは、J39の耐久性と50年以上経過しても使用に耐える品質を証明するものとなった。このプロジェクトは、Dezeen Awardsのコレクタブルデザイン部門にノミネートされている。
評価
J39 ピープルズチェアは、発表以来78年間にわたり途切れることなく生産され続けており、デンマーク国内で最も販売数の多い木製椅子の一つとして確固たる地位を築いている。その評価は単に商業的成功にとどまらず、デザイン史における重要性においても極めて高い。
デンマークでは、知らない人がいないほどの知名度を誇り、大学、カフェ、レストラン、公共機関、そして一般家庭において、新品とヴィンテージの両方が世代を超えて使用されている。特にデンマーク王立音楽院やデンマーク王立芸術アカデミー建築学校など、権威ある教育機関で採用されていることは、その品質と普遍性を物語っている。
デザイン評論家たちは、J39を「デンマークモダンデザインの民主化を実現した最初の椅子の一つ」として位置づけており、モーエンセンの「良質な家具を手頃な価格で」という理念が見事に結実した作品であると評価している。また、その控えめな佇まいの中に宿る完璧なプロポーションと構造の精緻さは、見る者に静謐さと安心感を与え、どのような空間にも調和する柔軟性を持つ。
国際的にも、J39はデンマークデザインの古典として認知されており、世界中のデザイン愛好家やコレクターから支持を受けている。そのタイムレスな美しさは、現代においても新進デザイナーたちのベンチマークとして機能し続けている。
受賞歴
J39 ピープルズチェア自体に対する個別の受賞記録は確認されていないが、デザイナーであるボーエ・モーエンセンは、キャリアを通じて数々の栄誉に輝いている。
- 1948年
- ニューヨーク近代美術館(MoMA)主催の国際コンペティション「Low-Cost Furniture」に参加(ハンス・J・ウェグナーと共同)
- 1950年
- エッカースベルグ・メダル(Eckersberg Medal)受賞
- 1971年
- デニッシュ・ファニチャー・プライズ(Danish Furniture Prize)受賞
- 1972年
- C.F.ハンセン・メダル(C.F. Hansen Medal)受賞
- 1972年
- ロンドン王立芸術協会(Royal Society of Arts)より「名誉王室デザイナー」(Honorary Royal Designer for Industry)の称号を授与
また、J39は製品レベルでの認証として、北欧エコラベル(Nordic Swan Ecolabel)、FSC認証、アメリカのBIFMA規格X5.4-2020への適合認証、ヨーロッパ規格EN 15372:2007(L2)への適合認証を取得しており、環境配慮と品質基準において国際的な認証を受けている。
基本情報
| デザイナー | ボーエ・モーエンセン(Børge Mogensen) |
|---|---|
| デザイン年 | 1947年 |
| 製造 | Fredericia Furniture(フレデリシア・ファニチャー)/ 当初はFDB Møbler |
| 分類 | ダイニングチェア |
| 素材 | ソリッドウッド(オーク材、ビーチ材、ウォルナット材)、手織りペーパーコード |
| 寸法 | 幅48cm × 奥行43cm × 高さ77cm、座面高46cm |
| 仕上げ | オイル仕上げ、ソープ仕上げ、ラッカー仕上げ、塗装仕上げ(各種カラー) |
| 認証 | FSC認証、北欧エコラベル、BIFMA X5.4-2020、EN 15372:2007(L2) |
| 生産状況 | 1947年より継続生産中 |
| 別名 | The People's Chair(ピープルズチェア)、シェーカーチェア |