カンチレバーチェア S 32 / S 33は、1920年代にマルト・スタムとマルセル・ブロイヤーによって生み出された、家具デザイン史を代表するカンチレバー(片持ち)チェアである。後脚を持たない片持ち構造という発想は近代家具デザインの出発点のひとつとなり、以後100年近くにわたって生産が続けられている。
トーネット社によって製造されるこれらの椅子は、冷間曲げ加工されたスチールパイプの弾力性を活かし、座る人に心地よい揺れをもたらす。S 33はマルト・スタムによる最初のカンチレバーチェアであり、S 32(別名:セスカチェア)はマルセル・ブロイヤーがウィーン様式の籐編みを取り入れて展開したモデルである。工業素材と手仕事の対比を特徴とし、機能性と造形美を両立させた椅子として広く知られている。
特徴・コンセプト
片持ち構造の軽やかさ
カンチレバーチェアの特徴は、従来の4本脚構造を排した片持ち式のフレーム設計にある。後脚を持たないこの構造により、椅子は宙に浮くような軽やかな印象を与え、座る人には空気の上に腰掛けるような座り心地をもたらす。スチールパイプのしなりが体の動きに応じてわずかに揺れ、厚いクッションを用いずとも快適性を生み出す。
素材の組み合わせ
S 32は、クロムメッキを施した冷間曲げスチールパイプと、伝統的なウィーン様式の籐編みという新旧の素材を組み合わせている。工業素材の近代性と手工芸の温かみが共存し、独自の質感が生まれている。曲げ木家具で知られるトーネット社が、その伝統的な籐編みの技術をスチールフレームと合わせることで、過去と現在をつなぐ椅子が生み出された。
S 32とS 33の違い
S 33はマルト・スタムが設計した、より直線的で幾何学的なモデルである。座面と背もたれには主にレザーが用いられ、立方体的なフォルムと明確なプロポーションが特徴となっている。一方、S 32はマルセル・ブロイヤーによるもので、曲木フレームにウィーン様式の籐編みを施した座面と背もたれを持ち、より有機的で軽やかな印象を与える。両モデルとも、肘掛け付きのバージョン(S 64およびS 34)が用意されている。
バウハウスの機能主義
これらの椅子は、バウハウスが掲げた「機能がフォルムを決定する」という考え方をよく表している。大量生産に適した工業素材、装飾を排したミニマルな造形、そして素材の特性を活かした快適性の追求は、モダニズムデザインの基本的な姿勢に沿ったものである。スチールパイプの弾性を活かすことで、厚いクッションを用いずに座り心地を確保する点に、機能から生まれる美しさが見てとれる。
エピソード
カンチレバーチェアの誕生
1925年頃、マルト・スタムはベルリンで配管用のガス管と継手を用いた椅子の実験を始めた。初期のプロトタイプはガス管をフランジで接続した硬質な構造で、のちに知られるような弾力性のある「揺れ」は意図されていなかった。スタムが求めたのは、近代建築と調和する明快なフォルムと、構造の経済性であった。
ヴァイセンホーフ・ジードルングでの発表
1927年、シュトゥットガルトで開催されたドイツ工作連盟展「住居」において、スタムは自身のカンチレバーチェアを初めて公の場で発表した。この展覧会は、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが総指揮を執り、近代建築の実験的住宅地ヴァイセンホーフ・ジードルングを会場として行われた。ミース・ファン・デル・ローエやマルセル・ブロイヤーもこの潮流に加わり、カンチレバーチェアというジャンルが広がっていった。
特許訴訟と芸術的著作権
1920年代後半、ブロイヤーとスタムはドイツの法廷でカンチレバーチェアの基本設計原理の発明者として特許訴訟を争った。最終的にスタムが勝訴し、1932年以降、カンチレバーチェアの芸術的著作権はスタムに帰属することとなった。この経緯から、現在もトーネット社が製造するブロイヤー設計の椅子には「芸術的著作権:マルト・スタム」という注記が付されている。
「セスカ」の名の由来
S 32は当初、トーネット社ではB32として生産され、1950年代にイタリアのガヴィーナ社が製造権を取得した際にもB32のまま生産されていた。創業者ディノ・ガヴィーナは、無味乾燥な型番から離れ、ブロイヤーの養女フランチェスカにちなんで「セスカ」という愛称を与えた。1968年にノル社がガヴィーナ社を買収し、以後セスカチェアはノル社の代表的な製品として世界中に広まっていった。
自転車からの着想
マルセル・ブロイヤーがスチールパイプ家具を着想したきっかけは、デッサウで愛用していたアドラー製の自転車であった。曲げ加工されたスチールパイプで組まれた自転車のフレームに魅せられ、この技術を家具に応用することを思い立ったという。1925年にワシリーチェア(B3)を、1928年にセスカチェアを発表した。彼はこの素材について、大量生産と規格化を通じて、磨き上げられた金属や、空間に伸びる澄んだ線に関心を持つようになったと語っている。
評価
カンチレバーチェア S 32 / S 33は、20世紀のデザイン史において最も重要な椅子のひとつとして高く評価されている。ニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーター、カーラ・マッカーティは、セスカチェアを「20世紀で最も重要な椅子10脚」のひとつに挙げている。
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のキュレーター、クリストファー・ウィルクは次のように評している。「このような椅子はかつて存在しなかった。構造的に大胆であり、建築と家具の双方に通じるモダニズムデザインの重要な理想の多くを示していた。それは機械時代を象徴する工業素材で作られ、素材を最小限に抑えることで視覚的に透明で、抽象的な性格を帯びていた。」
これらの椅子は、主要なデザインミュージアムのコレクションに収蔵されている。ニューヨーク近代美術館、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、ヴィトラ・デザイン・ミュージアムなどが、その歴史的・芸術的価値を認めている。
トーネット社は1930年前後からS 32を、それ以前からS 33を継続して生産しており、ノル社も1968年以降セスカチェアを製造している。ノル社だけでも約25万脚が販売されたとされる。近年は、ミッドセンチュリーモダンの再評価やヴィンテージ家具への関心の高まりとともに、あらためて注目を集めている。
基本情報
| 名称 | カンチレバーチェア S 32 / S 33 |
|---|---|
| デザイナー | S 32:マルセル・ブロイヤー(芸術的著作権:マルト・スタム) S 33:マルト・スタム |
| デザイン年 | S 32:1928年 S 33:1926年 |
| メーカー | Thonet(トーネット) |
| 生産開始年 | S 32:1930年前後 S 33:1927年 |
| 素材 | S 32:クロムメッキスチールパイプ、曲げ木、ウィーン様式籐編み S 33:クロムメッキスチールパイプ、レザー |
| 寸法(S 32) | 幅46cm × 奥行55cm × 高さ82cm、座面高46cm |
| 寸法(S 33) | 幅50cm × 奥行64cm × 高さ84cm、座面高46cm |
| 関連モデル | S 64(S 32の肘掛け付きバージョン) S 34(S 33の肘掛け付きバージョン) |
| 別名 | S 32:セスカチェア、B32、Cesca Chair |
| 生産国 | ドイツ(トーネット社:フランケンベルク) アメリカ(ノル社:セスカチェアとして) |
| 収蔵美術館 | ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、ヴィトラ・デザイン・ミュージアム 他 |