カンチレバーチェア S 32 / S 33は、1920年代後半にマルト・スタムとマルセル・ブロイヤーによって生み出された、家具デザイン史上最も革新的な椅子のひとつである。後脚を持たない片持ち構造(カンチレバー)という画期的な設計思想は、近代家具デザインの礎石となり、以後100年近くにわたって生産され続ける不朽の名作として、世界中のインテリアを彩り続けている。
トーネット社によって製造されるこれらの椅子は、冷間曲げ加工されたスチールパイプの弾力性を活かし、座る人に心地よい揺れを提供する。S 33はマルト・スタムによるオリジナルのカンチレバーチェアであり、S 32(別名:セスカチェア)はマルセル・ブロイヤーがウィーン様式の籐編みを取り入れて発展させたモデルである。両者ともにバウハウスの理念を体現し、機能性と美しさの完璧な調和を実現した傑作として評価されている。
特徴・コンセプト
革新的な片持ち構造
カンチレバーチェアの最大の特徴は、従来の4本脚構造を排した片持ち式のフレーム設計にある。アーティストのクルト・シュヴィッタースは1927年、史上初のカンチレバーチェアを目にした際、「二本で十分なのに、なぜ四本の脚が必要なのか」と記した。この革命的な構造原理により、椅子は宙に浮いているかのような軽やかな印象を与え、座る人には「空気の上に座る」ような快適な座り心地を提供する。
素材の革新的な組み合わせ
S 32は、クロムメッキを施した冷間曲げスチールパイプと、伝統的なウィーン様式の籐編み細工という、新旧の素材を見事に融合させた。この組み合わせにより、工業的な素材の持つ近代性と、手工芸の温かみが共存する独自の美学が生まれた。トーネット社は19世紀から曲げ木家具の製造で名を馳せており、その伝統技術である籐編みを革新的なスチールフレームと組み合わせることで、過去と未来を結ぶ架け橋となる椅子を創出した。
S 32とS 33の違い
S 33はマルト・スタムが設計した、より直線的で幾何学的なデザインを持つモデルである。座面と背もたれには主にレザーが使用され、立方体的なフォルムと明確なプロポーションが特徴となっている。一方、S 32はマルセル・ブロイヤーによるもので、曲木フレームにウィーン様式の籐編みを施した座面と背もたれを持ち、より有機的な曲線と軽やかな透明感を特徴とする。両モデルとも、肘掛け付きバージョン(S 64およびS 34)が存在する。
バウハウスの理念の具現化
これらの椅子は、バウハウスが掲げた「機能がフォルムを決定する」という理念を完璧に体現している。大量生産に適した工業素材の使用、装飾を排したミニマルな造形、そして人間工学に基づいた快適性の追求は、モダニズムデザインの本質そのものである。スチールパイプの弾性を活かした構造により、厚いクッションを必要とせず、素材そのものの特性が快適性を実現するという、真の意味での機能美が達成されている。
エピソード
カンチレバーチェアの誕生
1925年、マルト・スタムはベルリンで配管工が使用するガス管と継手を用いた椅子の実験を開始した。彼は1926年型タトラT12の車内に設置されていた片持ち式のスチールパイプシートからインスピレーションを得たとされる。スタムが開発したプロトタイプは当初、ガス管をフランジで接続した硬質な構造であり、現在知られるような弾力性のある「揺れ」の効果は意図されていなかった。彼が追求したのは、近代建築に完璧に調和する明確なフォルムと構造の経済性であった。
ヴァイセンホーフ・ジードルングでの発表
1927年、シュトゥットガルトで開催されたドイツ工作連盟展「住居」において、スタムは自身のカンチレバーチェアを初めて公の場で発表した。この展覧会は、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが総指揮を執り、近代建築の実験的住宅地ヴァイセンホーフ・ジードルングを会場として行われた。ミース・ファン・デル・ローエがスタムの椅子の構想を知り、それをバウハウスのマルセル・ブロイヤーに伝えたことで、カンチレバーチェアというジャンル全体が花開くこととなった。
特許訴訟と芸術的著作権
1920年代後半、ブロイヤーとスタムはドイツの法廷でカンチレバーチェアの基本設計原理の発明者として特許訴訟を争った。最終的にスタムが勝訴し、1932年以降、カンチレバーチェアの芸術的著作権はスタムに帰属することとなった。この判決により、現在もトーネット社が製造するブロイヤー設計の椅子には「芸術的著作権:マルト・スタム」という注記が付されている。
「セスカ」の名の由来
S 32は当初、トーネット社ではB32として、また1950年代にイタリアのガヴィーナ社が製造権を取得した際にはB32のまま生産されていた。創業者ディノ・ガヴィーナは、従来の無味乾燥な型番から脱却し、ブロイヤーの養女フランチェスカにちなんで「セスカ」という愛称を与えた。1968年にノル社がガヴィーナ社を買収し、以後セスカチェアはノル社の代表的製品として世界中に広まることとなった。
自転車からの着想
マルセル・ブロイヤーがスチールパイプ家具を着想したきっかけは、彼がデッサウで愛用していたアドラー製自転車であった。自転車のフレームに使用されていた曲げ加工されたスチールパイプの構造に魅せられたブロイヤーは、この技術を家具デザインに応用することを決意した。1925年にはワシリーチェア(B3)を発表し、その後1928年にセスカチェアを完成させた。彼自身、この素材について「大量生産と規格化により、私は磨き上げられた金属、空間における輝く完璧な線に興味を持つようになった。私はこれらの磨かれた曲線を、近代技術の象徴であるだけでなく、技術そのものと考えた」と語っている。
評価
カンチレバーチェア S 32 / S 33は、20世紀のデザイン史において最も重要な椅子のひとつとして高く評価されている。ニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーター、カーラ・マッカーシーは、セスカチェアを「20世紀で最も重要な椅子10脚」のひとつに挙げている。
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のキュレーター、クリストファー・ウィルクは次のように評している。「このような椅子はかつて存在しなかった。構造的に大胆であり、建築と家具に等しく適用可能なモダニズムデザインの重要な理想を多く体現していた。それは機械時代を象徴する工業素材で作られ、素材を最小限に抑えることで視覚的に透明であり、抽象的な性質を与えていた。」
これらの椅子は、世界の主要なデザインミュージアムの永久コレクションに収蔵されている。ニューヨーク近代美術館、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、ヴィトラ・デザイン・ミュージアムをはじめ、数多くの美術館がその歴史的・芸術的価値を認めている。
トーネット社は1930年以来S 32を、同時期よりS 33を継続して生産しており、ノル社も1968年以来セスカチェアを製造し続けている。ノル社だけでも25万脚以上を販売したとされ、その普遍的な魅力は100年近くの時を経ても色褪せることがない。近年では、ミッドセンチュリーモダンデザインの再評価、オーガニックモダンスタイルの流行、そしてサステナブルなヴィンテージ家具への関心の高まりにより、再び大きな注目を集めている。
デザイナー
マルト・スタム(Mart Stam, 1899-1986)
マルティヌス・アドリアヌス・スタム(マルト・スタム)は、オランダ・プルメレント生まれの建築家、都市計画家、家具デザイナーである。彼は近代建築の指導者のひとりであり、カンチレバーチェアの発明者として家具デザイン史に名を刻んだ。スタムは構成主義とデ・ステイルから強い影響を受け、合理的な建築と設計に深く傾倒した。1927年のヴァイセンホーフ・ジードルングへの参加、ロッテルダムのファン・ネレ工場への貢献、エルンスト・マイのニュー・フランクフルト住宅プロジェクト、そしてソ連での都市計画など、20世紀ヨーロッパ建築史の重要な場面に立ち会った。バウハウスでは1928年から1929年にかけて客員講師を務め、基礎構造論と都市計画を教えた。晩年はスイスに隠遁し、1986年に逝去した。
マルセル・ブロイヤー(Marcel Breuer, 1902-1981)
マルセル・ラヨシュ・ブロイヤーは、ハンガリー・ペーチ生まれの建築家、家具デザイナーである。1920年にバウハウスに入学し、その後最も若くして同校の教授となった。1925年にはワシリーチェアを、1928年にはセスカチェアを発表し、モダニズム家具デザインの先駆者として名声を確立した。1935年にロンドンへ移り、1937年にはハーバード大学建築学部の教授としてアメリカに渡った。その後ニューヨークで建築事務所を開設し、ユネスコ本部ビルやホイットニー美術館など、多くの重要な建築作品を残した。1956年のTIME誌では、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと並び「20世紀のフォルム・ギヴァー(形態の創造者)」と称えられた。
メーカー
トーネット(Thonet)
トーネット社は、1819年にミヒャエル・トーネットがドイツ・ボッパルト・アム・ラインで創業した家具メーカーである。1830年代に曲げ木技術を確立し、「曲げ木家具の発明者」として知られる。1842年にオーストリア宰相メッテルニヒ公の招きでウィーンに移り、ウィーンのカフェ文化を背景に大きな成功を収めた。代表作であるウィーン・カフェチェア No.14は、史上最も商業的に成功した椅子のひとつである。1920年代にはバウハウスとの協力関係を構築し、マルセル・ブロイヤーの冷間曲げスチールパイプによる実験を実現した。1930年代には世界最大のスチールパイプ家具メーカーとなり、現在もドイツ・フランケンベルクの工場で伝統的な品質基準を維持しながら製造を続けている。創業家の子孫であるペーター・トーネットが現在も経営に携わっている。
基本情報
| 名称 | カンチレバーチェア S 32 / S 33 |
|---|---|
| デザイナー | S 32:マルセル・ブロイヤー(芸術的著作権:マルト・スタム) S 33:マルト・スタム |
| デザイン年 | S 32:1928年 S 33:1926年 |
| メーカー | Thonet(トーネット) |
| 生産開始年 | S 32:1930年 S 33:1927年 |
| 素材 | S 32:クロムメッキスチールパイプ、曲げ木、ウィーン様式籐編み S 33:クロムメッキスチールパイプ、レザー |
| 寸法(S 32) | 幅46cm × 奥行55cm × 高さ82cm、座面高46cm |
| 寸法(S 33) | 幅50cm × 奥行64cm × 高さ84cm、座面高46cm |
| 関連モデル | S 64(S 32の肘掛け付きバージョン) S 34(S 33の肘掛け付きバージョン) |
| 別名 | S 32:セスカチェア、B32、Cesca Chair |
| 生産国 | ドイツ(トーネット社:フランケンベルク) アメリカ(ノル社:セスカチェアとして) |
| 収蔵美術館 | ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、ヴィトラ・デザイン・ミュージアム 他 |