ハンス・コレー:20世紀デザイン史を変えた一脚の椅子

ハンス・コレー(Hans Coray、1906-1991)は、1938年にデザインした「ランディチェア」により20世紀デザイン史における不朽の地位を確立したスイスのデザイナーである。三次元成形シートシェルという革新的な構造を確立し、アルミニウム家具の可能性を開拓した彼の功績は、イームズ夫妻をはじめとする後世のデザイナーたちに根底的な影響を与えた。わずか一作で家具デザインの歴史を塗り替えたこの人物は、その後彫刻家・画家としての道を歩み、芸術とデザインの境界を自在に行き来した稀有な創造者であった。

バイオグラフィー

1906年6月9日、スイス・チューリッヒ近郊のヴァルトに生まれたハンス・コレーは、当初デザイナーとは全く異なる道を歩んでいた。チューリッヒ大学でロマンシュ語を専攻し、1929年に博士号を取得した彼は、学術の世界に身を置く知識人であった。しかし1930年、24歳の時に家具デザイナーとして独立することを決意する。この時点で彼には正式なデザイン教育の経験はなく、1930年代を通じて独学で金属とワイヤーの加工技術を習得していった。

1932年には、スイスの画家でチューリッヒ・コンクリート・アート派の重要人物であったヴェレナ・ローウェンスベルクと結婚。同時期にグラフォロジー(筆跡学)、占星術、宗教哲学、デザインの自主学習に没頭し、1938年まで続けた。この学際的なアプローチは、彼のヒューマニスト的な価値観と結びつき、後のデザイン哲学の基盤となった。

1945年からはデザイナー、芸術家、美術商として活動を開始。1948年からは独立した金属彫刻家・画家として働き始める。1950年には機能デザインのアトリエを開設し、椅子、テーブル、アームチェアをデザインした。しかし1950年代以降、コレーの関心は次第に純粋芸術へと移行していった。彫刻と絵画の制作に主に専念し、チューリッヒ、ベルン、ケルンで個展を開催。1991年11月22日、チューリッヒで85歳の生涯を閉じた。

デザインの思想とアプローチ

コレーのデザイン哲学は一貫して機能性とシンプルさの追求に貫かれていた。彼は自らを「芸術、デザイン、建築の交差点」に位置づけ、ヒューマニストとしての価値観を重視した。グラフォロジー、占星術、心理学、宗教哲学への関心は、人間中心のデザインアプローチの基盤となっていた。

彼の目標は「魅力的な外観と卓越した快適性」を両立させることであり、「技術革新、素材の最適利用、ミニマルな形態、控えめなエレガンス」がその要素だった。素材との対話を重視し、アルミニウムの特性—軽量性、可鍛性、耐久性、美的な銀色の輝き—を最大限に引き出した。

美術史家ヴィリー・ロッツラーは1986年の展覧会図録で、コレーについてこう評している:「形態への感受性、熟練した職人技と技術的ノウハウ、既存のもの・生まれつつあるもの・まだ存在しないものへの好奇心、根本的にヒューマニスティックな視点、そして静かな諧謔的ユーモアを蒸留できるなら、私たちが今日これまで以上に必要としている完璧なデザイナーの本質が得られるだろう」

作品の特徴

コレーの代表作であるランディチェアは、革新的な構造を持つ。椅子は2つの部分から構成される。U字型に曲げたアルミニウム製プロファイルを溶接された横桟で接続した自立式フレームが、同時に脚部と低い肘掛けとして機能する。その上に、一枚のアルミニウム板をプレス成型した三次元シートシェルが載る。この背もたれと座面が一体となった構造は、当時としては全く新しいタイポロジーであり、後にイームズ夫妻がプラスチックで採用するシェルチェアの先駆けとなった。

最も特徴的なのは91個のパンチング穴である。これらは単なる装飾ではない。穴は重量を削減し(椅子の重量は約3kg)、シェルに柔軟性を与え、雨水を排出し、各穴の縁にテンションを加えることで全体の剛性を高め、そして椅子に独特の視覚的アイデンティティを与える。表面はアルマイト加工されたマット仕上げで、耐候性と耐久性を確保。最大6脚まで垂直にスタッキング可能な設計は、展示会での実用性を考慮したものだった。

主な代表作とその特徴

ランディチェア(Landi Chair)1938年

1938年の夏、コレーの人生を変える出会いが訪れる。バウハウスで学んだハンス・フィシュリが、1939年スイス国際博覧会(通称「ランディ」)の主任建築家ハンス・ホフマンの助手として、コレーに接触した。委託の内容は明確だった:「あらゆる点で新しい」公式屋外用チェアの開発。博覧会には1,500脚が必要とされ、チューリッヒ湖畔の会場全体に配置される予定だった。

驚くべきことに、コレーはそれまで一度も椅子を製品化したことがなかった。しかし彼は短期間で2種類のプロトタイプを開発し、「垂直にスタッキング可能なオールアルミニウムの椅子」というコンセプトを実現した。1939年のスイス国際博覧会で大きな成功を収め、コレーの椅子は「近代的で革新的なスイス」の象徴として、スイス国民の心にモダニズムを受け入れさせる役割を果たした。

2014年、ヴィトラ社が75周年を記念して復刻版の製造を開始した。この復刻は、コレーの未亡人ヘンリエッテ・コレーの監修のもと、オリジナルの91個の穴を持つデザインに回帰し、改良されたアルミニウム合金を使用することで脆さの問題を解決した。

モデル・コレー・ガーデンチェア 1953年

ランディチェアの軽量版として1953年にデザインされた作品。ドットパターンのパンチング加工が特徴で、ガーデン用途に特化した設計となっている。

功績・業績

ハンス・コレーは産業デザインのパイオニアとして認識されている。彼の功績は単に美しい椅子を一つ作ったことにとどまらない。

まず、家具におけるアルミニウムの革新的使用を確立した。1930年代後半、アルミニウムは航空機産業で使用されていたが、家具への応用は限定的だった。コレーはこの素材の可能性を見抜き、プレス加工、パンチング、溶接といった技術を統合して、全く新しいタイプの家具を創造した。

次に、三次元成形シートシェルという新しい椅子のタイポロジーを確立した。それまでの椅子は背もたれと座面が別々の構造を持っていたが、コレーは一枚の板から成形された一体型シェルという概念を実現した。この構造的革新は、後のプラスチック製シェルチェアの発展の基礎となった。

2004年には、スイス郵政がスイスのデザイン・クラシックをテーマとした切手シリーズでランディチェアを取り上げた。カランダッシュの固定式鉛筆、スイス鉄道時計、RiRiジッパー、レックス野菜ピーラーと並ぶこの栄誉は、国家レベルでのデザイン的重要性を示している。

評価・後世に与えた影響

ランディチェアは今日、20世紀デザイン史における最も重要な作品の一つとして広く認識されている。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久コレクションに収蔵されており、クーパー・ヒューイット・スミソニアン・デザインミュージアム、ヴィトラ・デザイン・ミュージアム、チューリッヒ造形美術館など、世界中の主要デザインミュージアムがコレクションに含めている。

現代のデザイン評論家たちは、椅子が「今日でも新鮮で生き生きとしている」「機能性と美的エレガンスを調和させたデザインの力の証」と評価する。コレーの技術的革新—三次元成形シートシェルのタイポロジー—は、後世の家具デザインに計り知れない影響を与えた。チャールズ&レイ・イームズ、アルネ・ヤコブセンをはじめとする20世紀の巨匠たちの作品に、その影響を見ることができる。

コレーの影響は、デザイン教育にも及んでいる。ランディチェアは世界中のデザイン学校で、材料革新、機能主義的デザイン原理、産業デザイン方法論、デザインの長寿性と時代を超越する性質のケーススタディとして教えられている。

作品一覧

年月 区分 作品名 ブランド
1938年 椅子 Landi Chair(ランディチェア) P. & W. Blattmann / Vitra
1938-1939年 テーブル Landi Coffee Table(ランディ・コーヒーテーブル) P. & W. Blattmann
1953年 椅子 Modell Coray Garden Chair(ガーデンチェア) -
1950年代 椅子・テーブル Wohnbedarf Furniture Collection Wohnbedarf
1930-1938年 プロトタイプ Early Experimental Works(初期実験作品) -
1938-1939年 展示会建築 スイス国際博覧会 内装デザイン -
1944-1946年 展示会建築 バーゼル見本市展示ブース Sandoz, Duran
1941年以降 ジュエリー 金属ジュエリー作品 -
1948-1991年 彫刻 金属彫刻作品 -
1950-1991年 絵画 絵画作品(100点以上) -

Reference

Hans Coray | Official Vitra® Online Shop US
https://www.vitra.com/en-us/product/designer/details/hans-coray
Vitra | ハンス・コレー
https://vitra.com/ja-jp/about-vitra/designer/details/hans-coray
Landi Chair | Official Vitra® Online Shop GB
https://www.vitra.com/en-gb/product/landi-chair
Vitra | Landi Chair / ランディ チェア
https://www.vitra.com/ja-jp/product/landi-chair
Hans Coray - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Coray
Landi-Stuhl – Wikipedia
https://de.wikipedia.org/wiki/Landi-Stuhl
A History of Swiss Aluminium — Disegno Journal
https://disegnojournal.com/newsfeed/swiss-aluminium-schmid-kokkonen-christenguss
Landi Chair – Swiss National Museum
https://blog.nationalmuseum.ch/en/2017/08/landi-chair/
Landi Chair | Objects | Cooper Hewitt Museum
https://collection.cooperhewitt.org/objects/18693711/
Hans Coray. Landi Chair. 1938 | MoMA
https://www.moma.org/collection/works/4294
Hans Coray – Vitra Design Museum Shop
https://shop.design-museum.de/en/collections/hans-coray
Works – Hans Coray – eMuseum
https://www.emuseum.ch/en/people/236/hans-coray/objects
Introduction to the Iconic Landi Chair - Encyclopedia of Design
https://encyclopedia.design/2024/01/12/landi-chair-1938-by-hans-coray/