Chemex(ケメックス)― 科学と美が生んだコーヒーメーカーの永遠のアイコン

Chemex(ケメックス)は、1941年にドイツ出身の化学者ピーター・シュラムボーム博士によって発明されたハンドドリップ式コーヒーメーカーのブランドである。実験室のガラス器具とバウハウスのデザイン哲学を融合させた砂時計型のフォルムは、誕生から80年以上を経た現在もなお、世界中のコーヒー愛好家とデザイン愛好家を魅了し続けている。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久コレクションに収蔵され、イリノイ工科大学が選定した「近代における最も優れたデザインのプロダクト100選」にも名を連ねるChemexは、単なるコーヒー器具を超え、20世紀アメリカンモダンデザインを代表するオブジェとしての地位を確立している。

現在もマサチューセッツ州チコピーに本社を構えるChemex Corporationは、家族経営の企業として創業者の遺志を受け継ぎ、一台一台を手作業で仕上げるクラフトマンシップを守り続けている。非多孔性のホウケイ酸ガラスで成形されたカラフェ、独自開発のボンデッドペーパーフィルター、そして天然木のカラーと革紐というわずか三つの素材が織りなすデザインは、機能美の極致として今日も変わることがない。

ブランドの特徴とコンセプト

Chemexの設計思想は、シュラムボーム博士が提唱した「Beautility(ビューティリティ)」という造語に集約される。Beauty(美)とUtility(実用性)を組み合わせたこの概念は、日用品であっても美しくあるべきであり、同時にその美しさは機能に奉仕すべきであるという信念を表している。

科学に裏打ちされた抽出の完全性

化学者としてのシュラムボーム博士は、コーヒー豆から抽出される成分を詳細に分析し、芳香性のコーヒーオイルとカフェインのみが「望ましい成分」であると結論づけた。この知見に基づいて開発されたChemex Bonded™フィルターは、一般的なペーパーフィルターより20〜30パーセント厚い特殊な紙で製造されており、不要な油脂、苦味成分、酸味、沈殿物を効果的に除去する。また、コレステロールを上昇させるとされるカフェストールの除去にも優れた効果を発揮するとされている。

実験室から食卓へ ― 素材の純粋性

Chemexのカラフェには、実験器具と同等のラボグレード・ホウケイ酸ガラスが使用されている。非多孔性のこのガラスは、化学物質はもとよりいかなる風味もコーヒーに付与しないため、豆本来の味わいを純粋に楽しむことができる。エルレンマイヤーフラスコとガラス漏斗という二つの実験器具を原型とした砂時計型のフォルムは、抽出と濾過という科学的プロセスを最も合理的に遂行するための造形であると同時に、バウハウスの美学を体現するデザインでもある。

天然素材が添えるヒューマニティ

精密なガラス造形の中央を彩る木製カラーと革紐は、Chemexのデザインにおいて極めて重要な役割を果たしている。断熱性を備えたカラーは注湯と注ぎの際の把持機能を担い、革紐は二分割されたカラーをガラス本体に固定する。モダニズムの時代にあって、研究室のガラス器具と手結びの革紐という有機的な素材の対比は、Chemexを他のコーヒーメーカーと決定的に差別化する視覚的特徴となっている。

ブランドヒストリー

創業者ピーター・シュラムボーム博士の歩み

ピーター・シュラムボーム(Peter Schlumbohm、1896年7月10日〜1962年11月6日)は、ドイツ・キール市に生まれた。化学薬品製造業を営む父と芸術的素養を持つ母のもとで育ち、ベルリン大学で化学の博士号を取得。在学中にはゲシュタルト心理学の創始者の一人であるヴォルフガング・ケーラーにも師事している。

第一次世界大戦では砲兵将校として西部戦線に従軍し重傷を負った。この経験は、権威主義的な制度への反感を強め、後の自由奔放な発明家精神の形成に大きな影響を与えたとされる。戦後、家業の相続権を放棄して長年にわたる学究生活を選択し、ヨーロッパ各地で独立した発明家として活動を始めた。

1930年代、ナチズムの台頭を嫌い、またアメリカの特許制度に魅了されたシュラムボームは、ニューヨークへと移住。冷凍技術を中心に300を超える特許を取得する一方、生活必需品のデザイン改良にも情熱を注いだ。その集大成がChemexコーヒーメーカーであった。

Chemexの誕生と第二次世界大戦下での飛躍

1939年、シュラムボーム博士はコーヒーメーカーの特許を出願し、1941年に特許が認可された。同年、パートナーとともにChemex Corporationをニューヨークに設立。1942年にはニューヨークの百貨店メイシーズでの取り扱いが始まり、最初の500台が製造された。

第二次世界大戦中、金属やプラスチックが軍需物資として制限されるなかで、ガラスと紙と木のみで構成されたChemexは、戦時下の愛国的な代替品としても注目を集めた。シュラムボーム博士は戦時生産委員会から量産の許可を取得し、コーニング・グラス・ワークスとの製造契約を締結。1942年には、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の「戦時下の有用な日用品」展の表紙を飾り、1944年には同館の永久コレクションに収蔵されるに至った。

ポップカルチャーにおける象徴的存在

Chemexは、イアン・フレミングの小説『ロシアより愛をこめて』において、ジェームズ・ボンドが朝食時に愛用するコーヒーメーカーとして登場し、その文化的地位を確固たるものとした。さらに、ポール・ニューマン主演の映画『動く標的』やテレビドラマ『メアリー・タイラー・ムーア・ショー』、アイラ・レヴィンの小説『ローズマリーの赤ちゃん』とその映画化作品にも登場している。1959年にモスクワで開催されたアメリカン・キッチン展示では、ニクソンとフルシチョフの「キッチン討論」の舞台にもChemexの姿があった。

継承と復活

1962年のシュラムボーム博士の逝去後、Chemex Corporationは一時期低迷の時代を迎えた。1950〜60年代の家電ブームのなかで自動コーヒーメーカーが普及し、手動式のChemexは次第に人々の記憶から遠ざかっていった。しかし、2000年代に入り、スペシャルティコーヒーの興隆とともにハンドドリップの価値が再評価されると、Chemexは劇的な復活を遂げる。サードウェーブコーヒーのムーブメントにおいて、Chemexはその歴史的意義とデザイン性、そして卓越した抽出品質により、世界中のカフェとコーヒー愛好家の間で再び不可欠な存在となった。

現在のChemex Corporationは、工場の現場で育った兄妹によって率いられる家族経営企業として、マサチューセッツ州チコピーの本社工場において、すべてのコーヒーメーカーの検品、研磨、手結び作業を行い、すべてのフィルターを自社で裁断している。フィルターペーパーはアメリカ国産の原料のみを使用し、持続可能な製造慣行に基づいて生産されている。

主なプロダクトとその特徴

クラシックシリーズ

1941年の原型を忠実に受け継ぐChemexの象徴的なシリーズ。ラボグレードのホウケイ酸ガラスによる砂時計型のカラフェに、天然木のカラーとフルグレインレザーの革紐を手作業で組み付けた、Chemexの原点にして頂点のプロダクトである。3カップ(15オンス)、6カップ(30オンス)、8カップ(40オンス)、10カップ(50オンス)の4サイズを展開する。最も人気が高いのは8カップサイズであり、家庭でのコーヒータイムから来客時のおもてなしまで幅広く対応する。

ガラスハンドルシリーズ

クラシックシリーズの砂時計型フォルムを継承しつつ、木製カラーの代わりにガラス製のハンドルを一体成形したシリーズ。クリア、ゴールド、サファイア、トロピカルツイスト、シトラスツイスト、タイダルツイストの6色を展開し、ヴィーガンの方にも適した完全ガラス製の選択肢を提供する。3カップ、6カップ、8カップ、10カップの4サイズ展開。カラー付きハンドルの彩りがキッチンやダイニングに華やかなアクセントを添える。

ハンドブロウンシリーズ

クロアチアの職人ガラス工房で一点ずつ手吹きで制作される特別なシリーズ。機械成形では得られない有機的な曲線と微妙な個体差が、まさに一点もののアートピースとしての風格を醸し出す。5カップ、8カップ、13カップ(65オンス)サイズを揃え、13カップという大容量サイズはパーティーシーンにも対応する。

Chemex Bonded™ フィルター

Chemexの抽出品質を支える核心的なプロダクト。シュラムボーム博士が化学者としての知見を注ぎ込んで開発した専用フィルターは、一般的なペーパーフィルターより20〜30パーセント厚く、コーヒーに含まれる不要な成分を効果的に除去する。酸素洗浄処理を施した白色タイプと、温水洗浄のみのナチュラルブラウンタイプの2種類があり、いずれも漂白剤や化学薬品を使用しない。コンポスト可能で、すべてアメリカ国産原料により国内で製造されている。6カップ以上用のスクエアフィルター(FSU-100、FS-100、FC-100、FP-1)と、3カップ用のハーフムーンフィルター(FP-2、FP-2N)を展開する。

Ottomatic® 2.0

Chemexの抽出品質を自動化した画期的なプロダクト。Chemexカラフェをセットし、水とフィルターと挽きたてのコーヒーを用意するだけで、Chemexならではのクリーンな一杯を自動抽出する。手動のプアオーバー技術を持たない方や、忙しい朝に最適な一台である。3カップ、5カップ、6カップ、8カップのChemexカラフェに対応する。

Chettle®(チェトル)

2019年に発表された、Chemexデザインの伝統を受け継ぐグースネックケトル。ステンレスとガラスのハイブリッド構造を採用し、インダクション加熱による急速沸騰と1度単位の温度制御を実現する。最大40オンスの大容量で、Chemexアイコニックな砂時計型のプロファイルを踏襲したフォルムが、ブリューイング体験全体の美的統一感を高めている。

FUNNEX®(ファネックス)

2021年に発表された、シングルサーブ対応のプアオーバーブリューワー。二重壁のホウケイ酸ガラスで高い断熱性を実現し、5〜15オンスのコーヒーを手軽に抽出できる。付属のシリコンガスケットにより、さまざまなカップやマグ、サーモスに直接セットして使用可能。家庭からオフィス、キャンプまであらゆるシーンで Chemex品質のコーヒーを楽しめる携帯性の高いプロダクトである。

主なデザイナー

ピーター・シュラムボーム博士 / Dr. Peter Schlumbohm(1896–1962)

ドイツ・キール生まれの化学者にして発明家。ベルリン大学で化学の博士号を取得後、1930年代にアメリカに移住した。生涯を通じて300を超える特許を取得し、その少なくとも20の発明がニューヨーク近代美術館の永久コレクションに収蔵されている。カクテルシェーカー「Mixarium」、ワインクーラー「Fahrenheitor」、扇風機「Filterjet Fan」、さらには自動車「Chemobile」に至るまで、その発明は多岐にわたった。

シュラムボーム博士は生前、自らの発明を「Beautility(ビューティリティ)」と呼び、科学的合理性と審美性の融合を一貫して追求した。その仕事はバウハウスのデザイナーたちの理念と通底するものがあり、モダニズムのストリップダウンされた工業的美学を体現している。著名なデザイン評論家ラルフ・カプランは、シュラムボーム博士の死後に寄せた追悼文において、その発明を「論理と狂気の融合」と評し、Chemexコーヒーメーカーを「賞賛のみならず愛情をも感じることのできる、数少ないモダンデザインのひとつ」と讃えた。

受賞歴と美術館収蔵

  • ニューヨーク近代美術館(MoMA)永久コレクション収蔵(1944年〜)
  • MoMA「戦時下の有用な日用品(Useful Objects in Wartime)」展 表紙掲載(1942年)
  • イリノイ工科大学「近代における最も優れたデザインのプロダクト100選」選出(1958年)
  • スミソニアン協会 収蔵
  • フィラデルフィア美術館 収蔵
  • コーニングガラス美術館 収蔵

基本情報

正式名称 Chemex Corporation(ケメックス・コーポレーション)
設立 1939年(Chemex Corporation設立)/ 1941年(コーヒーメーカー特許認可)
創業者 ピーター・シュラムボーム博士(Dr. Peter Schlumbohm、1896–1962)
本社所在地 アメリカ合衆国マサチューセッツ州チコピー(1102 Sheridan Street, Chicopee, MA 01022)
経営形態 家族経営(40年以上)
主要製品 コーヒーメーカー(クラシック / ガラスハンドル / ハンドブロウン)、Bonded™フィルター、Ottomatic® 2.0、Chettle®、FUNNEX®、アクセサリー
製造国 ガラス本体:台湾・ドイツ(クラシック / ガラスハンドルシリーズ)、クロアチア(ハンドブロウンシリーズ)/ フィルター:アメリカ国内製造
公式サイト https://chemexcoffeemaker.com